入学したはいいものの,この時以来,私にとって不幸の日々が始まる。
この時期を端的に示している記事がこちら。
まさにtOriPayを思いつく直前に,今から詳細に記載する,2015年前後の出来事を,振り返って書いた記事である。
三鷹の大学を離れてちょうど一年ほどになるが、あれほど人生最高の時間を期待して、実際には人生最悪の時間を過ごした日々はなかった。
これからの若い人にはぜひ上のような失敗を回避し、自尊心と自負心とを大事にして、前へ前へと進んでもらいたい。
……ひ,ひどい。
何がどうなかったというと,話は,極めて単純であった。
私の発想は,基本的に保守主義である。深圳も上海も銅鑼湾も,嫌いではない。しかし,基本的なスタンスは,
刺戟的な体験をもたらしてくれる外国や外国人は好ましいが,私の気分や体調は,つねに,状況による変動から自由ではない。
したがって,刺戟的であっても一定の負荷がかかる外国的なコンテンツは,私が希望するときにだけ,いつでも触れられるのが理想であって,外国的なものが私の目前にやって来て,私生活上の安寧を破壊することは,断じて阻止しなければならない。
なのである。
したがって,疲労すると,自動的に,外国は嫌い,北海道なり沖縄なりに出奔して安穏と暮らしたい,という趣旨のことを言い始める。
そうした中,この時は,相当に疲労していたのだろう。
入学後,大学当局は,本格的に第二男子寮を取り潰すべく,学生の意見を聞いたという口実を作る目的で,新新二寮支援会議,というような名称の会を設置していた。
(第二男子寮集合写真。下段右から2番目。一番右のヤツはすごいコンサル屋になったが,私はこの風体である。あのさぁ,散髪ぐらいちゃんとしろよ……)
この会で,第二男子寮を取り壊して,新新二寮という意識の高い,某ゼネコンに大枚をはたいて作らなければならないような学生寮を作る必要がある理由として提示されたのが,
LGBTである学生への対応
だったのである!
ご存知かどうか知らないが,国際基督教大学では,CGS(ジェンダー研究センター)という一種の研究室があり,これを目当てに入学する者もいて,一定の勢力を維持している。
もちろん教授にも,これを応援する勢力が多いわけで,これら教授の声が通った結果が,第二男子寮の解体だったわけだ*1。
今にして思えば,どうだろう。LGBTやそれを支援する人々が悪であるとは思わない。しかし,それによって家を追われるまでに至ったとき,読者の皆さんも,どう思うか,考えてみてほしい。
イスラムの人がこれから移住するので,この町から退去してください,と行政に呼びかけられたら,ひとはどう思うのだろう。少なくとも当時は,そんな気分だった。
そこで,このジェンダー関係のひとと,論点を問わず,勝利することを目的とした,議論をすることになった。ここが,決定的な脱線であった。
権力者でないもの同士が,勝利を争って議論をしても意味がない。意味があるとすれば,相互に新しい知見を得て,思考力を高めることぐらいである。それなのに,この際技巧でも策略でも威圧でもいいからと,政治的利害を目的とした議論に,脚を,深く突っ込んでしまった*2。
このとき,損をしたのは,一方的に私のほうであった。
なぜなら,もとより数的に劣勢であったからだ。国際基督教大学は,けっして,「いい大学」ではない。費用の使途は不明瞭極まるし,箱物行政のウラには,某有名建築家の影が見え隠れするし,官僚は無能かつ高給だし,役職付の教授自ら,逮捕者が出るような過激派のデモに,学生を連れて行くこともある。
公安調査庁のスパイは,学内を,常時,たむろしている。こんな意味不明で,かつカネのかかる,自治のない学校には,行くべきではない。私は,本当に後悔している。
数的に劣勢であれば,議論の内容にかかわらず,勢力内の互助システムに乗せて貰えないので,他人は誰もそうしていないのに,ひとりだけ,純然たる「実力勝負」を迫られる。
その結果,私は敗北したのである。悪いことに,私は私の政治的な見解を,プライベートな世界にまで持ち込んでいた。生来,議論が好きであったのだ。
元来狭いコミュニティであったため,私は,たちまち居場所を失った。
居場所を失うと,ひとは,視界が狭くなって,無理な行動をするものである。その結果,政治的問題の範囲を超えて人望を失い,ここでは,犯罪者呼ばわりされた上で,学園祭実行委員会を解任された。2票差であった。
このとき,私は,社会そのものを解任されたのだと,強く感じた。実家では,家族が,なんだかんだで抱擁してくれたものであるが,東京でひとり暮らし*3をすると,そんな味方はいない。
かといって死ぬ勇気もないし,いっぽうで,私にいわせれば,政治的目的から逆算した思考を,あたかも知恵であると標榜しているところの,「教授」らの話を聞いて,ワンワンと吠えて単位をもらう気持ちは,毛頭なかった。
私は,退学届に署名して,親元に郵送した。親は,私の学費を払っていたわけではなかったが,退学に,断固として,同意しなかった。結局,ここでは,休学として様子を見ることになった。
私は,はやく生計を立てて,または,別のもっとマシな大学に転学して,吐き気のしない人生を送るべく,本格的な就労を開始した。
土日を中心にやっていた,コジマ電気パートの販売員に加えて,平日も,なるべく働くことにしたのである。この時は,何でもやってみるという気概があったのか,警備員まで,やった。
そして,あるとき,私は,食品スーパーの惣菜係に採用された。鳥商社が設立される,2ヶ月半ほど前のことであった。
*1:むろん大学当局は,老朽化といった,それっぽい理由をもあげているが,これは最終的に,証拠によって明確に否定されている
*2:この後色々と勉強するが,政治的な,つまり結果がすべてであるという考え方によっておこなわれる言論活動の恐ろしさは,筆舌に尽くしがたいものである。しかし,LGBTの人らは,そのような世界に没入して,不当である点が少しぐらいあっても,これを継続せざるを得ないほど,既存の世界から追い詰められていたのであろう。シオニズム的発想の犠牲者となった私や第二男子寮は不幸だと思うが,このような人々の居場所は,ユダヤ人同様,どこかで用意されるようにしないと,彼らとしても,このように,それと分からない形で政治的優勢下で,ある種の暴力を行使して,これを確保するしかない,ということになるのだと思う
*3:このころ,第二男子寮はちょうど潰されている