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天網恢恢疎而不漏

職場の「インフルエンサー」と法治主義

ここのところ、個人的な事情から、労働問題について種々詳しく調査している。その結果、労働問題発生の原因と、自分自身の生き方について、多少の発見があったのでまとめてみたい。

労働問題は面白い

労働問題は「面白い」。なぜならば、契約の当事者が期待した利得に対して、実際に感受された利得が、著しく劣っていた結果として出現するためだ。

ある会社に雇傭されるということは、使用者側にとっては日本の労働法を前提とした様々なリスクや管理コスト*1を引き受ける代わりに労働力を仕入れる行為であり、他方で労働者側にとっては、既存の生活環境や人間関係の大部分を入れ替え、新たな適応コストや、既存の人間関係を切り捨てる心理的負担、および労働契約と実際の労働条件が相違するなどのリスクを引き受ける*2行為に他ならない。

使用者側、労働者側がそれぞれ、係るスイッチング・コストを引き受けてでも新たな関係を切り結ぼうとしたのであるから、その合意のアツさたるや、如何ばかりであろうか。両者とも、自らが提供しているもの以上の見返りを将来に亘って得られるであろうとの見込みのもとに、係るコストを全部支払った上で、新たな雇傭契約の成立にこぎ着けたのである。

労働問題は、このような期待が損なわれた結果として発生するものと定義できる。労働者の側から退職を申し出る場合は、一部では脅迫的な引き留めも見られるが、会社に来ない人間を無理矢理連行してくるといったことがあまり現実的ではない為か、法的なトラブルとして出現することはあまりない。そのため、ここでは以後、「労働問題」の名の下に、使用者側の解雇や処分、減給・減俸に対して労働者が抵抗する形をとる法的トラブルを、狭義の「労働問題」として取り扱うことになるだろう。

非問題の「問題」化

労働問題全般に当てはまる傾向として、そもそも問題でなかったものが、労働問題の勃発とともに「問題」化することが挙げられる。これは離婚係争の様子によく似ていて、本来であれば酒を飲んで一晩寝れば忘れたような喧嘩や、ソンタクの世界で許されていたような軽微なルール違反やウソが、ただちに民法上の問題へと姿を変える*3

そこで発生する個々の論点についての係争というのは、実に非生産的でしょうもないものなのであるが、弁護士屋は両者ともにやればやるほど儲かるので、これをはやし立てるか、少なくとも止めようとはしない。したがって、下手をすると2年以上にも亘ってこうしたトラブルが続くのであるが、続けば続くほど、特に解雇であればバックペイというような係争の目的額(勝ったら入手できる、または払わずにすむ金額)が増え続けるので、引くに引けなくなるのである。一方で、*4弁護士屋には、ほぼノーリスクで着手金、手当はじめ報酬が手に入る。

したがって、読者諸兄が使用者であろうと労働者であろうと、ある日突然何かが「問題化」することを前提に慎重に行動しなければならないことは論を俟たないが、多くの事例を観察すると、「非問題の問題化」の連続であるところの労働問題の勃発には、職種によって傾向が大別されることがわかる。

ブルーカラー現業労働者の労働問題

いわゆるブルーカラーの労働問題は、主に、労働条件について労働者側が異議を申し立て、これに対していわば条件反射的に、会社が当該労働者の排除を試みるケースが多い。

ブルーカラー労働者の労働法に関する知識水準は、一般に極めて低い。このことは、ブルーカラー労働自体の性質として、言語ではなく労力を毎日取り扱っているところ、労働基準法はじめ労働問題を取り扱うほぼすべてのメディアは、言語によってその情報をやり取りしていることが、抽象的ではあるが妥当な理由として挙げられるだろう。

ブルーカラー労働者の使用者は、暗黙的にであっても、その事をよく知っている。だからこそ、雇傭する労働者それぞれに、彼らが知らないような権利があって、それを行使されるということをとにかく恐れている。

いわゆる残業代の時効が2年ということもあってか、使用者側にとって、当該労働者の排除は有力な選択肢となりやすい。これから労働条件の改善に取り掛かるのであれば、なるべく早く適当な解決金を、まだ権利にさほど自覚的ではない労働者に支払って債権債務放棄の書面にサインさせればいいのであるし、権利に関する知識が会社全体に波及した場合の損失よりは、当該労働者が徹底的に抵抗した場合に見込まれる費用のほうが小さい。労働組合の組織率は、毎年過去最低を記録しているのである。

また、特に近時はそもそもの賃金が低水準であるから、解雇しさえすれば生活に困窮した当該労働者は、すぐに他の職業に転職して復職の要求をあきらめたり、雀の涙ほどのカネで泣き寝入りするのではないか、ということも期待できるのである。

ホワイトカラー・言語労働者の労働問題

一方で、いわゆるホワイトカラーの労働問題は、実にしょうもない人間関係の「こじれ」が原因で、泥沼の労働問題に突入する場合が多い。

表題でホワイトカラー労働者を「言語労働者」と表現したが、これには理由がある。ホワイトカラー労働者が日々交換する情報(サービス)というのは、常に言語によって表現されるからだ。同じ2トントラックであれば、鹿児島から北九州まで運ぶのに社長に好かれていたり、コミュニケーション能力が高かったりする必要はないのであるが、言語の伝達は常に「語り手」「聞き手」の人的資質に左右される。その時々の気分や状況もあれば、それをソンタクする能力にも差がある。

さらに見逃せないのが、人間はつねに、確証バイアスによって情報を解釈するということだ。確証バイアスという術語の詳しい定義についてはヒマな時に各自ググれば良いのであるが、要するに、「やつは敵だ」「やつは悪者だ」と思いながらやつの話を聞けばそういう風に聞こえるし、その逆もしかりであるということである。

そうすると、常に言語を交換するホワイトカラー労働者の仲間のうちで、特定のバイアスを生じさせるような人間関係のこじれが生じた場合、どうしても、次から次へとトラブルが連続することになる。こじれさえなければトラブルでさえなかったものが、当事者にとっては、トラブルに思えて仕方がないのである。

職場の「インフルエンサー

むろん、労働問題というのは法的トラブルであるから、雇傭契約について決裁権のある人物のところにまで、何かをトラブルであると捉えようとする気持ち、つまり悪意の推定が伝播しなければ労働問題の勃発には至らない。

つまり、法人としての使用者がどのホワイトカラー労働者を相手としてトラブルを勃発させるかは、会社のどこかで、誰かと誰かとの間で発生した悪意の推定が、どちらにとって有利な形で、人事権者の胸中にまで伝播するかに係っているのである。

もちろん、ここで「誰か」の片方に社長が含まれていれば話は分かりやすいのであるが、組織が大きくなるにつれて、社長とじかに話す時間は少なくなっていくものである。ここで、職場の「インフルエンサー」が登場するのである。

インフルエンサーというのは、元来マーケティング用語であって、芸能人でもないのに多くの人にものを買わせることができるような、インターネット上の小さな人気者のことを指す。これは小学校のクラスに一人はいた人気者のような性格を持っているのだが、似たような位置づけの人物が、やはり小学校のクラスのようなサイズの部署や会社において、ひとりかふたりはいるように思われる。

このうち抑圧的な影響力を持つようなものは、昔から「お局様」として呼称され、忌み嫌われてきた。それなのに、肯定的なインフルエンサーについては、サラリーマン用語として定義されたことがない。

お局様にとって、上司である人事権者を「抑圧」することは必ずしも容易ではない。しかし、上司に対して友好的な影響力を行使し、同じ見解に立たせるのであれば、難しくはない。既に述べたような言語労働者の性質や、悪意の推定を人事権者に伝達させることの構造的な必要性からいえば、ホワイトカラーの職場において日常的な言語情報の交換を、労働問題に転換させる鍵は、現場に近いところにあって言語情報を頻繁に他の労働者と交換していて、それゆえに人間関係のこじれに遭遇する可能性があって、そこで得た悪意の推定を上司に伝播させる能力を持つ「インフルエンサー」に握られているように思われる。

インフルエンサーが直面する「法治主義

しかし、ブルーカラー労働者で怠惰なものを職場から排除することほどには、ホワイトカラー労働者の排除は簡単ではない。すなわち、トラックを運転しなければタコメーターが回らないのであるから、また、必要に応じて監視カメラのひとつでも取り付ければ比較的明らかに勤怠の実情はあきらかになり、ここに有効な争いの余地は生じにくいのであるが、ホワイトカラー労働者が普段交換している言語というものは、それが伝達された状況に応じて意味を変えるものであるし、その当時と現在における回想でも味わいが異なるし、受け手の個人的なバックグラウンドによっても意味が異なるし、要するに十人十色の解釈があり得るのである。

そのため、言語労働者が、言語を用いてする「犯罪」は、きわめて抑制的に定義されざるを得ない。その結果が、現在さかんに云われている、官僚によるセクハラ発言をめぐる論争であろう。

しかし、言語が与える印象は、一度発信者に悪意を推定すれば無限に不愉快なものであるし、その推定を裏付けるような文脈でしか解釈できなくなるものであるから、前段のインフルエンサーや、その伝播に降った上司や同僚に取ってみれば、視界に入るだけで不愉快の部類に含まれる類いのものなのである。

そこで時に、使用者は言語による犯罪を謳って、労働者の排除を試みざるを得ない。この種の争いはどうしても複雑なものになるから、弁護士屋にとってみれば、恰好の書き入れ時となる。この場合、使用者は主観的な快適性を、莫大な費用と、バックペイのリスクを引き受けてまで購入しているのであるが、人間は常に、将来の負債よりも現在の資産を好むものであるし、経営者は株主から預かった資金を、無為に、ホテルとか銀座とかの飲食店で浪費してしまうものである。この場における弁護士費用も、事実上似たような性質を有している。

ところが、ここで法治主義の壁が立ちはだかる。法治主義の定義についてはやはりググってもらうか、社会科の教科書を開いてもらうとして、要するにここでいう壁とは、法律は、インフルエンサーやその伝播下にある者の主観を代弁してくれるものではない、ということだ。立法者は賢いもので、前述のように、処罰に値する言語行為について、きわめて抑制的に定義している。

それゆえ、職場のなかでとりあえず誰かを孤立させたり、上司を味方に付けたりするのと同じぐらいの容易さでは、法的な意味で言語労働者を排除することはできない。

ワガママが通らないことへの戸惑い

それでもインフルエンサーが争いや排除に固執するのは、インフルエンサーという性格が自然に有する性質として、他人を支配下に置き、ソンタクさせ、争うまでもなく意図するとおりに行動させることに、恐らくは幼少の時期より慣熟していたからではないかと思われる。

だからこそ、法的な権利はじめ、誰に対しても平等に与えられるものは、インフルエンサーにとって障害であるのだ。なぜならばインフルエンサーは、人が言語によってのみ思考することを利して、なるべく自己にとって有利な印象を植え付け、「クラス」の中で普及させることによって、実際に供出した能力や労力、コミットメントを上回る対価を得てきたのだから。

最近の動向を念頭に、筆者がかつて所属してきた社会で起こった人間関係上のトラブルを思い返してきたところ、そこには常に「インフルエンサー」の姿が見え隠れした*5。議論の内容がどんなものであろうとも、その人に異議を申し立てた途端、自分の方だけが社会から離脱し、宙に浮いたかのような錯覚を覚えさせてしまうような人が、常に最後の対立相手であった。

逆に云えば、それ以外の構成員とは、仮にトラブルになっても、その場だけの問題で済んだし、済まされた。当事者の間では悪意の推定が働き、色々な言葉が問題化したのであるが、局地的、一時的な対立として処分されたのである。

しかしインフルエンサーを相手にした途端、その風景は一変する。多くの構成員がほぼ一斉に、昨日とは異なる意味で筆者の言葉を捉えるようになり、黙っていても抗弁を続けても、トラブルが自然消滅することは絶対にない。

社会人未満と社会人以降で、このようなトラブルの性質に相違があるとすれば、そこに少なからぬ額の金銭と、法的な保護や責任の力が働くかどうかである。

小括

かつて、多くの人は筆者より社会的であるから遭遇するトラブルが少なく、筆者はそうでないので、様々なトラブルを見てきたのだろうと信じていた。しかし事実は、多くの人は「相手を見て喧嘩をしている」だけなのだろうと、上の見解を踏まえて思い直す次第である。

筆者は個人的な性格として、人をなるべく平等に扱うようにしている。ある人がやれば非難される行為が、別の人がやるのであれば非難されないといったことは、原則として絶対に認めない。無論警官ではないから能動的にそれを取り締まりに行くわけではないが、筆者の近くでそういう事が起これば、いつもそのように処理してきた。その結果、多くのインフルエンサーの尾を踏むことになったに違いない。

そんな筆者にとって、法の保護に服することができるということは、大いなる喜びである。社会科で習ってから15年以上を経て、ようやく「法」の有り難みを実感する日が来たのである。

なぜって、筆者は臆病者であるから、明文のルールにだけは違反せず、なるべくなら公共の社会秩序をも侵害しないように、ビクビクして生きてきたのである。特に、大学を放り出されてからのここ2年間は*6

 

「民主主義、万歳」

*1:補助金が出る場合も一部あるが

*2:現在の勤務先では、少なくともそれは明らかになっているのである。どんなブラック企業であろうとも

*3:もちろん、その背後にはそれを推奨する弁護士屋の影がある

*4:特に使用者側の

*5:無論、所属したあらゆる社会でトラブルを起こしてきたわけでは到底ない

*6:だから、インバウンドの人々や、そうでなくても騒音を発するヤンキーとか暴走族は大嫌いである