Serve One Another

天網恢恢疎而不漏

働く喜びについての中間報告

2年ぐらい手掛けていた経営者業(自営業)を、名実ともに手放すことになった。プライベートの場ではないからあまり仔細には書けないのだが、ぶっちゃけ、めっちゃ嬉しい。そもそも、(当時)20歳で「社長」なんて違和感満載で、気持ち悪すぎる。誰かにそう呼ばれる度に、現在に至るまで多少の吐き気を催していたぐらいだ。

従って、会社名を冠したこのブログのタイトル「tOriMado」も、元に戻す必要がありそうだ*1ドメインを変えなくてよかった。

その昔、会社の名義で三鷹市内のアパートを借りたことがある。駅からも遠く、実にしょうもない物件であったのだが、借りるのは大変だった。一応「お客様」であり、事務所可の表示がある物件であるにも拘わらず、吉祥寺駅からほど近い不動産屋はまずこう言い放った。振り込め詐欺の事務所ですか?」と。

振り込め詐欺をやるだけのコミュ力と積極性があれば、人生色々と変わっていたと思うのだが。俺の顔見てそんなに詐欺師っぽく見えるかね。と不満に思いつつ*2

しかし、それでも借りる必要があったのは、物理的な事務所がなければ法人名義の銀行口座を開けないからであった。しかし、その為とはいえ毎月7万円ぐらい(光熱費込み)の固定費負担は痛かった。世の中、持たざるものにはとことん厳しいのだ。元手が自己資本15万円と他人資本5万円、アイフルからの借入金30万円だったのだから、その厳しさは明らかだと思う。

しかしながら、当時の住所は学生時代から(寮監にバレないように)住み続けていた学生寮であったから、登記など出来ないし、登記したところで金融機関の現地確認など受けようがない。どうしようもなかったのだ。

 

ところで、今日の話題は「働く喜び」である。(会社員は辞めていないが)経営者を辞めて相当ヒマなので、『国富論』を読み返しているのだ。いつ読んでも発見の尽きない稀有な書であるが、第1部で針工場の喩えが出てくる。普通の人が針を作ろうとしても1日に2,3本がせいぜいで、質もよくないが、工場を使えば5,6人の工員で質のよい針を何千本と作れる。それは、それぞれの工員が一つの単純作業に特化することで、作業を切り替える時間が節約でき、しかもその作業について能率的な方法を発見するからである、と。

ようするに「分業の利益」のお話しなのだが、ここでは「単純作業」に注目したい。よく考えたら、どんなに意識の高い仕事だって、じつは単純作業に過ぎないのではないかと思い立った。

GoogleAppsScriptでコードを叩きまくるのも、キーボードと指が接触しているという意味においては単純作業だ。優秀な営業マンも、究極的には足と口を動かしているに過ぎない。精密なMacbookを作る工場だって(まさに上記の方法で)多数の労働者が単純作業を繰り返しているわけだし、その設計図をつくる作業とて、鉛筆を上下左右に移動させたり、使いにくいCADのソフトをカチカチする単純作業に他ならないだろう。

それでは、フォックスコンの労働者とスティーブジョブズは代替可能なのだろうか?*3

答はノーである。なぜなら、フォックスコンの労働者には知識がないからだ。最悪の場合、CADソフトを起動させることすら出来ないだろう。GASを叩くのも同じ事だ。営業マンだって、そもそも言語を知っている*4から営業が出来る。つまり稀少性の高い労働とは、需要の高い知識を有する人物が行う単純作業の連続をいうのであって、誰にでも行いうる単純作業に、一定の知識が付加価値として附着したものに過ぎないのだ。

経営していた会社でやっていた事業も、要するにそういう事だった。GASやHTMLの知識は初学者程度にしかなかったが、資金決済法が改正されるよりよっぽど前に情報を集め始めたこともあって、仮想通貨についての一定の知識が、筆者の単純作業に上乗せされた。その結果、人がそうするより先に、ちょっとした役務製品を作りあげた。

学生時代に世間さまが筆者に与えてくれた仕事と比べれば、全然自由があったし、働くことそれ自体によって、知識が蓄積される機会があった。時間が摩耗する一方で、知識(経験)が蓄積された。結果的には、創業以前にやっていたようなアルバイトをやって2年を過ごした場合よりも、筆者が実際にそうしたような方法で2年を過ごした場合のほうが、筆者にとって有益だったと思われる。

筆者にとって、休日は事実上無かった。会社員としての立場を得るまでは誰の指図も受ける必要がなかったから、資金が尽きない範囲で好きなことが出来た。この場合、仕事が溜まっていなければ休むことも出来たし、会社に行かなかった日もあったはずだ。

しかし今日においても、休日である事それ自体が楽しいと思ったことはない。本や新聞は高い集中力を要するので3時間以上に亘って読み続けることができないし、ゲームや動画はバカらしくて見ていられない。旅行に行くとお金が掛かる。

飲食店に出入りするとお金だけでなく心も消耗するので、純粋な喜びは自宅や落ち着ける喫茶店で行う何かしらの飲食、飲酒しかないと思った。しかし、飲食は大体、肥満をもたらす。肥満を解決して健康を買い戻すには、平均して1kgあたり5万円程度の費用が掛かることが(実際に試した結果)分かっている。要するに、休日の飲食は将来の苦痛と当日の快楽を高利に交換しているだけであって、純粋な喜びの総量を増やしてはいないのだ。

多くのアルバイトや単純労働と異なって、経営者や(外回りの)営業マンは時間的な自由がある。カッコよく言えば「裁量」である。以前は、これこそが楽しい労働とそうでない労働の間に横たわる違いだと信じていたが、それは誤りであったと今は思う。時間的な自由は、何もしない時間と化してしまえば(坐禅のような)苦痛をもたらすので、結局のところ何かをするしかない。何かをする為には、何かしらの役務や商品を購入する費用の発生や、健康を害したことによって、将来それを買い戻す必要があるという負債の発生を許容しなければならない。

それを考慮すれば、スーパーあずさで松本新宿間を毎月50往復しても構わないぐらいのお金持ちにならない間は、自由な時間自体が快楽を提供してくれることはないと思われる。スーパーあずさで松本新宿間を毎月50往復するような労働を可能にする知識がどのような知識であるかは*5あまり興味が無いのでここでは扱わない。

 

労働が喜びである原因があるとすれば、第一に、職場の雰囲気が十分良好で、話し相手がいるということだろう。それによって顧客から見たサービスの質が低下したり、単純作業の能率が低下するのでなければ、これは間違いなく望ましいことだと思われる。アルバイトの経験で言えば、ブックオフがこれに近かったと記憶している。

日本のサービス業では、従業員が顧客以外と口を聞かないことがサービスの一環だと考えられているので、この点では苦痛が大きい。ただでさえ近くに居る人と話したいところ、そういう訳にもいかないから人々はTwitterにハマっていると思われるのに、非常に抑制的であると思う。ちなみに中国に行けば、客も店員もいつもうるさく話しているので、業種を問わず、この種の苦痛はあまりなさそうだ*6

 

第二に、筆者にとっては、自らの価値観と大きく矛盾しないことが非常に重要であると感じている。政治家にでもならない限りは、価値観そのものを商品にして生きていくことは出来ないだろう。

しかし、商品を売る場合はその目的となる商品、商品を作る場合もその目的の商品について、それを行う方法や、その商品が社会に投入された結果について、自らの価値観と矛盾するかどうかを考えることは可能である。

家電量販店の販売員をやっていた時代は、けっこう苦痛であった。商品が日本メーカーのぼったくりに過ぎないと分かっていても、売らなければならなかったからだ。ライバル社の商品のよいところをよいと言えないのも苦痛であった。

販売員としての業界での評価は悪くなかったので、その気になればこの仕事に留まって、今日もどこかでプリンターを売っていることも出来ただろう。しかし、働けば働くほどに商品自体を作り、あるいは独占的なメーカーや販売店が故意に隠そうとしているよりよい方法や無名な商品を引っ張り出して売る側に回りたいとの思いを強くした。結果的に、この思いは現実となった。

価値観は、思うに、起きている間中スマホゲームに熱中している人々の気持ちが筆者には一切理解できない(が、スマホゲーム会社は大儲けしている)ことから明らかなように、幼少期からの教育によって作られるものであって、変更することはほとんど出来ないので、それに適した仕事を求める他ないように思われる。

仕事と価値観が一致すれば、仕事自体は誰にとっても等価な(附加される知識の量とその種類の違いはあれ)単純作業にすぎなくても、そこに特別な意義を見出すことができる。人には大抵好き嫌いがあり、それを自分や他人、ゆくゆくは全世界に押しつけたいと願っているが、その目標に一歩ずつ前進しているように思えるか、少なくとも後退していると思うことによる苦痛を逃れることはできるからだ。

その場で同じような意義を見出すことができる友人を作る機会があれば、恐らくは長期に亘って労働の幸福を押し上げることができるだろう*7

 

働く喜びについて。現段階で筆者が分かっていることをまとめてみよう。全ての労働は単純作業の連続や組み合わせであるが、高度かつ需要の高い知識によって制御された単純作業であれば、そうでない単純作業よりも高い対価を世間さまに請求することができる。

単純作業の種類によっては、休暇が多かったり自由に取得できたりするが、休暇を消費する為にもコストを要するので、資金が有限である限りは、そのような種類の単純作業を射止めても、さほどの幸福を感じることはできない*8

人は常に誰かと話したいと思っているので*9、それが可能であるような職場は、従事する単純作業が同じであれば、そうでない職場よりも一般に幸福度が高いはずだ*10。また、自身の価値観に沿った商品を扱う単純作業であれば、単純作業に特別な意義を見出すことができるので、そうでない単純作業よりも幸福度が高いはずだ。

昔もそんな記事を書いた覚えがあるが一応補足すると、幸福度を向上させること自体が人生の目的であるという話はしていない。だいたい、幸福度は蓄積性に劣るので、幸福の蓄積よりは財産の蓄積のほうが、(何かの一貫した目的に沿って時間を消費したいという希望がある人にとっては)より妥当な目的設定だとおもう。

しかし、幸福度が高ければ、幸福を購入する為の費用をその分だけ免除されるので、幸福でない場合よりも好ましい。つまり結局は財産を殖やすという(対置されがちな)目的も達成される*11。スミスの言葉を借りれば、今年の労働によって、来年の労働を買うことができる。つまり「生産的」ということだ。

 

*12

*1:戻した

*2:もっとも、当時の体重は88kgであったので、詐欺師というか自己管理能力の無いバカ自営に見えたことだろう

*3:アダムスミスは、「誰でも荷担ぎ労働者に似たところがあるとは認めたがらないが、実際のところ、人の能力には生まれながらにしてそれほど大きな違いはない」と断言している

*4:ビジネス特有の言葉遣いを含めて

*5:弁護士資格かもしれないし、はたまた弁理士かもしれないが、そんなことよりあずさ回数券くれへん?

*6:というかホテルマンぐらい英語を話してくれ!

*7:そんな友人が学校で作れればいいんだけどね

*8:ただし、空間や時間が制約されることによるストレスを回避する役には立つ

*9:そうでなきゃはてなTwitterも倒産してるよ

*10:特に、この家族崩壊のご時分では

*11:達成から遠ざかる機会を回避し得る

*12:相変わらず意味不明な文章だが、これはもうそういうものなんだと思ってください