Serve One Another

天網恢恢疎而不漏

職場の「インフルエンサー」と法治主義

ここのところ、個人的な事情から、労働問題について種々詳しく調査している。その結果、労働問題発生の原因と、自分自身の生き方について、多少の発見があったのでまとめてみたい。

労働問題は面白い

労働問題は「面白い」。なぜならば、契約の当事者が期待した利得に対して、実際に感受された利得が、著しく劣っていた結果として出現するためだ。

ある会社に雇傭されるということは、使用者側にとっては日本の労働法を前提とした様々なリスクや管理コスト*1を引き受ける代わりに労働力を仕入れる行為であり、他方で労働者側にとっては、既存の生活環境や人間関係の大部分を入れ替え、新たな適応コストや、既存の人間関係を切り捨てる心理的負担、および労働契約と実際の労働条件が相違するなどのリスクを引き受ける*2行為に他ならない。

使用者側、労働者側がそれぞれ、係るスイッチング・コストを引き受けてでも新たな関係を切り結ぼうとしたのであるから、その合意のアツさたるや、如何ばかりであろうか。両者とも、自らが提供しているもの以上の見返りを将来に亘って得られるであろうとの見込みのもとに、係るコストを全部支払った上で、新たな雇傭契約の成立にこぎ着けたのである。

労働問題は、このような期待が損なわれた結果として発生するものと定義できる。労働者の側から退職を申し出る場合は、一部では脅迫的な引き留めも見られるが、会社に来ない人間を無理矢理連行してくるといったことがあまり現実的ではない為か、法的なトラブルとして出現することはあまりない。そのため、ここでは以後、「労働問題」の名の下に、使用者側の解雇や処分、減給・減俸に対して労働者が抵抗する形をとる法的トラブルを、狭義の「労働問題」として取り扱うことになるだろう。

非問題の「問題」化

労働問題全般に当てはまる傾向として、そもそも問題でなかったものが、労働問題の勃発とともに「問題」化することが挙げられる。これは離婚係争の様子によく似ていて、本来であれば酒を飲んで一晩寝れば忘れたような喧嘩や、ソンタクの世界で許されていたような軽微なルール違反やウソが、ただちに民法上の問題へと姿を変える*3

そこで発生する個々の論点についての係争というのは、実に非生産的でしょうもないものなのであるが、弁護士屋は両者ともにやればやるほど儲かるので、これをはやし立てるか、少なくとも止めようとはしない。したがって、下手をすると2年以上にも亘ってこうしたトラブルが続くのであるが、続けば続くほど、特に解雇であればバックペイというような係争の目的額(勝ったら入手できる、または払わずにすむ金額)が増え続けるので、引くに引けなくなるのである。一方で、*4弁護士屋には、ほぼノーリスクで着手金、手当はじめ報酬が手に入る。

したがって、読者諸兄が使用者であろうと労働者であろうと、ある日突然何かが「問題化」することを前提に慎重に行動しなければならないことは論を俟たないが、多くの事例を観察すると、「非問題の問題化」の連続であるところの労働問題の勃発には、職種によって傾向が大別されることがわかる。

ブルーカラー現業労働者の労働問題

いわゆるブルーカラーの労働問題は、主に、労働条件について労働者側が異議を申し立て、これに対していわば条件反射的に、会社が当該労働者の排除を試みるケースが多い。

ブルーカラー労働者の労働法に関する知識水準は、一般に極めて低い。このことは、ブルーカラー労働自体の性質として、言語ではなく労力を毎日取り扱っているところ、労働基準法はじめ労働問題を取り扱うほぼすべてのメディアは、言語によってその情報をやり取りしていることが、抽象的ではあるが妥当な理由として挙げられるだろう。

ブルーカラー労働者の使用者は、暗黙的にであっても、その事をよく知っている。だからこそ、雇傭する労働者それぞれに、彼らが知らないような権利があって、それを行使されるということをとにかく恐れている。

いわゆる残業代の時効が2年ということもあってか、使用者側にとって、当該労働者の排除は有力な選択肢となりやすい。これから労働条件の改善に取り掛かるのであれば、なるべく早く適当な解決金を、まだ権利にさほど自覚的ではない労働者に支払って債権債務放棄の書面にサインさせればいいのであるし、権利に関する知識が会社全体に波及した場合の損失よりは、当該労働者が徹底的に抵抗した場合に見込まれる費用のほうが小さい。労働組合の組織率は、毎年過去最低を記録しているのである。

また、特に近時はそもそもの賃金が低水準であるから、解雇しさえすれば生活に困窮した当該労働者は、すぐに他の職業に転職して復職の要求をあきらめたり、雀の涙ほどのカネで泣き寝入りするのではないか、ということも期待できるのである。

ホワイトカラー・言語労働者の労働問題

一方で、いわゆるホワイトカラーの労働問題は、実にしょうもない人間関係の「こじれ」が原因で、泥沼の労働問題に突入する場合が多い。

表題でホワイトカラー労働者を「言語労働者」と表現したが、これには理由がある。ホワイトカラー労働者が日々交換する情報(サービス)というのは、常に言語によって表現されるからだ。同じ2トントラックであれば、鹿児島から北九州まで運ぶのに社長に好かれていたり、コミュニケーション能力が高かったりする必要はないのであるが、言語の伝達は常に「語り手」「聞き手」の人的資質に左右される。その時々の気分や状況もあれば、それをソンタクする能力にも差がある。

さらに見逃せないのが、人間はつねに、確証バイアスによって情報を解釈するということだ。確証バイアスという術語の詳しい定義についてはヒマな時に各自ググれば良いのであるが、要するに、「やつは敵だ」「やつは悪者だ」と思いながらやつの話を聞けばそういう風に聞こえるし、その逆もしかりであるということである。

そうすると、常に言語を交換するホワイトカラー労働者の仲間のうちで、特定のバイアスを生じさせるような人間関係のこじれが生じた場合、どうしても、次から次へとトラブルが連続することになる。こじれさえなければトラブルでさえなかったものが、当事者にとっては、トラブルに思えて仕方がないのである。

職場の「インフルエンサー

むろん、労働問題というのは法的トラブルであるから、雇傭契約について決裁権のある人物のところにまで、何かをトラブルであると捉えようとする気持ち、つまり悪意の推定が伝播しなければ労働問題の勃発には至らない。

つまり、法人としての使用者がどのホワイトカラー労働者を相手としてトラブルを勃発させるかは、会社のどこかで、誰かと誰かとの間で発生した悪意の推定が、どちらにとって有利な形で、人事権者の胸中にまで伝播するかに係っているのである。

もちろん、ここで「誰か」の片方に社長が含まれていれば話は分かりやすいのであるが、組織が大きくなるにつれて、社長とじかに話す時間は少なくなっていくものである。ここで、職場の「インフルエンサー」が登場するのである。

インフルエンサーというのは、元来マーケティング用語であって、芸能人でもないのに多くの人にものを買わせることができるような、インターネット上の小さな人気者のことを指す。これは小学校のクラスに一人はいた人気者のような性格を持っているのだが、似たような位置づけの人物が、やはり小学校のクラスのようなサイズの部署や会社において、ひとりかふたりはいるように思われる。

このうち抑圧的な影響力を持つようなものは、昔から「お局様」として呼称され、忌み嫌われてきた。それなのに、肯定的なインフルエンサーについては、サラリーマン用語として定義されたことがない。

お局様にとって、上司である人事権者を「抑圧」することは必ずしも容易ではない。しかし、上司に対して友好的な影響力を行使し、同じ見解に立たせるのであれば、難しくはない。既に述べたような言語労働者の性質や、悪意の推定を人事権者に伝達させることの構造的な必要性からいえば、ホワイトカラーの職場において日常的な言語情報の交換を、労働問題に転換させる鍵は、現場に近いところにあって言語情報を頻繁に他の労働者と交換していて、それゆえに人間関係のこじれに遭遇する可能性があって、そこで得た悪意の推定を上司に伝播させる能力を持つ「インフルエンサー」に握られているように思われる。

インフルエンサーが直面する「法治主義

しかし、ブルーカラー労働者で怠惰なものを職場から排除することほどには、ホワイトカラー労働者の排除は簡単ではない。すなわち、トラックを運転しなければタコメーターが回らないのであるから、また、必要に応じて監視カメラのひとつでも取り付ければ比較的明らかに勤怠の実情はあきらかになり、ここに有効な争いの余地は生じにくいのであるが、ホワイトカラー労働者が普段交換している言語というものは、それが伝達された状況に応じて意味を変えるものであるし、その当時と現在における回想でも味わいが異なるし、受け手の個人的なバックグラウンドによっても意味が異なるし、要するに十人十色の解釈があり得るのである。

そのため、言語労働者が、言語を用いてする「犯罪」は、きわめて抑制的に定義されざるを得ない。その結果が、現在さかんに云われている、官僚によるセクハラ発言をめぐる論争であろう。

しかし、言語が与える印象は、一度発信者に悪意を推定すれば無限に不愉快なものであるし、その推定を裏付けるような文脈でしか解釈できなくなるものであるから、前段のインフルエンサーや、その伝播に降った上司や同僚に取ってみれば、視界に入るだけで不愉快の部類に含まれる類いのものなのである。

そこで時に、使用者は言語による犯罪を謳って、労働者の排除を試みざるを得ない。この種の争いはどうしても複雑なものになるから、弁護士屋にとってみれば、恰好の書き入れ時となる。この場合、使用者は主観的な快適性を、莫大な費用と、バックペイのリスクを引き受けてまで購入しているのであるが、人間は常に、将来の負債よりも現在の資産を好むものであるし、経営者は株主から預かった資金を、無為に、ホテルとか銀座とかの飲食店で浪費してしまうものである。この場における弁護士費用も、事実上似たような性質を有している。

ところが、ここで法治主義の壁が立ちはだかる。法治主義の定義についてはやはりググってもらうか、社会科の教科書を開いてもらうとして、要するにここでいう壁とは、法律は、インフルエンサーやその伝播下にある者の主観を代弁してくれるものではない、ということだ。立法者は賢いもので、前述のように、処罰に値する言語行為について、きわめて抑制的に定義している。

それゆえ、職場のなかでとりあえず誰かを孤立させたり、上司を味方に付けたりするのと同じぐらいの容易さでは、法的な意味で言語労働者を排除することはできない。

ワガママが通らないことへの戸惑い

それでもインフルエンサーが争いや排除に固執するのは、インフルエンサーという性格が自然に有する性質として、他人を支配下に置き、ソンタクさせ、争うまでもなく意図するとおりに行動させることに、恐らくは幼少の時期より慣熟していたからではないかと思われる。

だからこそ、法的な権利はじめ、誰に対しても平等に与えられるものは、インフルエンサーにとって障害であるのだ。なぜならばインフルエンサーは、人が言語によってのみ思考することを利して、なるべく自己にとって有利な印象を植え付け、「クラス」の中で普及させることによって、実際に供出した能力や労力、コミットメントを上回る対価を得てきたのだから。

最近の動向を念頭に、筆者がかつて所属してきた社会で起こった人間関係上のトラブルを思い返してきたところ、そこには常に「インフルエンサー」の姿が見え隠れした*5。議論の内容がどんなものであろうとも、その人に異議を申し立てた途端、自分の方だけが社会から離脱し、宙に浮いたかのような錯覚を覚えさせてしまうような人が、常に最後の対立相手であった。

逆に云えば、それ以外の構成員とは、仮にトラブルになっても、その場だけの問題で済んだし、済まされた。当事者の間では悪意の推定が働き、色々な言葉が問題化したのであるが、局地的、一時的な対立として処分されたのである。

しかしインフルエンサーを相手にした途端、その風景は一変する。多くの構成員がほぼ一斉に、昨日とは異なる意味で筆者の言葉を捉えるようになり、黙っていても抗弁を続けても、トラブルが自然消滅することは絶対にない。

社会人未満と社会人以降で、このようなトラブルの性質に相違があるとすれば、そこに少なからぬ額の金銭と、法的な保護や責任の力が働くかどうかである。

小括

かつて、多くの人は筆者より社会的であるから遭遇するトラブルが少なく、筆者はそうでないので、様々なトラブルを見てきたのだろうと信じていた。しかし事実は、多くの人は「相手を見て喧嘩をしている」だけなのだろうと、上の見解を踏まえて思い直す次第である。

筆者は個人的な性格として、人をなるべく平等に扱うようにしている。ある人がやれば非難される行為が、別の人がやるのであれば非難されないといったことは、原則として絶対に認めない。無論警官ではないから能動的にそれを取り締まりに行くわけではないが、筆者の近くでそういう事が起これば、いつもそのように処理してきた。その結果、多くのインフルエンサーの尾を踏むことになったに違いない。

そんな筆者にとって、法の保護に服することができるということは、大いなる喜びである。社会科で習ってから15年以上を経て、ようやく「法」の有り難みを実感する日が来たのである。

なぜって、筆者は臆病者であるから、明文のルールにだけは違反せず、なるべくなら公共の社会秩序をも侵害しないように、ビクビクして生きてきたのである。特に、大学を放り出されてからのここ2年間は*6

 

「民主主義、万歳」

*1:補助金が出る場合も一部あるが

*2:現在の勤務先では、少なくともそれは明らかになっているのである。どんなブラック企業であろうとも

*3:もちろん、その背後にはそれを推奨する弁護士屋の影がある

*4:特に使用者側の

*5:無論、所属したあらゆる社会でトラブルを起こしてきたわけでは到底ない

*6:だから、インバウンドの人々や、そうでなくても騒音を発するヤンキーとか暴走族は大嫌いである

同性婚の不可なるを説く―再生産を巡る報酬的秩序の観点から

Abstract

現在我が国においては、同性愛者であっても養子縁組によって婚姻と同等かそれ以上の実際的なメリットを享受することができる。それでもなお同性婚が要請される理由は、婚姻が単に経済的なメリットをもたらすに留まらず、当事者間に精神的な満足を与えるものであるからに他ならない。

その価値は共同体によって認められ、また与えられるものであるが、ではそのバーターとして夫婦から共同体に捧げられている貢献とは何だろうか。筆者が思うに、それは人口の再生産という代替不可能な貢献である。同性愛者は他の男女が生んだ子を譲渡されて育てることはできるが、それは社会に新たな人口をもたらすものではないし、保育園や孤児院、ボランティアによって代替可能なものだ。一方、最終的に人口を再生産するという夫婦の機能は、現在に至るまで夫婦以外の何かによって担われたことがない。
婚姻という関係にのみ認められる特別な承認は、この特別な貢献と引き替えに与えられているのではないか。もしそうであれば、同性カップルがそれを得ることは困難というほかない。仮に制度上でそれを実現させても、反対勢力による攻撃が常に彼らを不安に陥れるだろう。
そこで、筆者は同性カップルの関係を婚姻制度とは別個のものとして新たに民法上の地位を与え、同性カップルが実際に多くの孤児などを引き受けて共同体への貢献を果たすことで、長い時間を経て独自の名誉ある地位を確立していくことを提案する。その名誉は同じ貢献を果たしている保育園や孤児院、ボランティアなどと同程度のものになるはずだが、それは決して"取るに足りない"ものではないはずだ。

先年の春、東京都渋谷区は「同性パートナーシップ証明書」なるものを発行し始めた。現時点において我が国は同性婚を認めてはいないが、渋谷区の制度を利用すれば擬似的に公的セクターによって承認された結婚的なものを体験することができるため、ゲイリブ運動の界隈では大変歓迎された。
北欧を中心に、すでに同性婚を認めている国も少なくない。我が国に最も影響を与えやすいアメリカ合衆国においても、最高裁判決によって全ての州でこれが認められることになった。キリスト教の信念を理由に同性婚の受付を拒んだ女性事務官が収監された事件は記憶に新しいだろう。
全体的としては同性婚承認の方向に進みつつある自由世界の情勢を踏まえつつ、本稿では我が国における同性婚の承認、すなわち法制化が共同体に与える影響について考察したい。

同性婚とは何か

まず、同性婚という概念そのものについて、ごく簡単に当事者の主張を参照したい。
EMAと称するゲイリブ団体は、公式ウェブサイトで「なぜ同性婚が必要なのですか?」という問いに対し、以下のように回答している。

 

同性愛者は、国や時代を問わず、一定割合存在します。社会のある人たち(異性カップル)には婚姻による全ての法的・社会的な権利と義務関係、そして「結婚」という特別の響きを持つ関係性を認めるのに、一方でその他の人たち(同性カップル)に対してこれら全てを否定するなら、それは差別です。

自ら選択する自由のない、生まれた出自や階級、人種を超えた結婚を禁止するのが差別であるのと同様に、自分で選択したものではない「性」により結婚を禁止するのも差別です。

結婚すると、同居・協力・扶助義務、守操の義務が発生すると同時に、遺産の相続権、被扶養配偶者として年金、医療、税の控除、労災補償の遺族給付などを受けられるようになります。これらの権利義務関係は、配偶者が異性である場合に限定する合理的理由がありません。憲法第14条1項が定める「法の下の平等」の観点からも、同性カップルに平等な権利義務関係を認めることが必要であると考えられます。同性カップルに結婚を認めない現状は「法の下の不平等」です。

社会のあるグループを差別する社会は、そのグループの能力を十分に活動できず、経済的には不利益です。実際、今日同性婚あるいはパートナーシップを認める国の一人当たりGDPは、それらを認めない国の平均の4倍近くになっています。今後日本は40年間に人口が半減しますが、こうした急激な人口減少に対応するために、国民一人一人の能力を最大限に発揮しなければ、経済は一層深刻な縮小を余儀なくされます。

また、配偶者が外国人の場合は、日本に居住したり帰化できるようになります。現在では多くの国で同性婚が認められますが、それらの国で結婚した同性カップルの一方が仕事で日本に赴任する際、配偶者を日本に帯同できないという問題が生じています。日本は高度な知識や技能を有する外国人を受け入れ、経済の活性化を図ろうとしていますが、外国人の同性カップルについて、配偶者の日本の居住を認めないことは日本の経済的利益を損なっていると言えます。

さらに、外国人の同性パートナーと結婚した日本人は、2人の婚姻が認められない日本を離れ、婚姻が認められる相手国に移住することが多く、日本の人口減少に拍車をかけていると言えます。

婚姻の法律上の効果に加えて、結婚は2人の相互理解と信頼、協力と家事の分担などの意味があります。こうした結婚の意味は同性カップルにとっても重要なものです。

emajapan.org

 

この主張は、道徳的側面の実利的側面の二本立てで同性婚を擁護する内容である。すなわち、道徳的には婚姻に伴って発生する諸々の権利と義務を確認しつつ、「これらの権利義務関係は、配偶者が異性である場合に限定する合理的理由がありません」と結論づけている。合理的理由を欠いた区別は不平等であるから、それは差別に他ならない。
実利的にも、諸外国と異なる婚姻制度が高度人材の一部に我が国への移住を断念させていることは、その影響の大小はさておくとして、事実であろう。ただし、経済的利益が見込めるということは、必ずしもその政策を実行しなければいけないという規範的な言説を正当化しない。戦前に実際主張されたように、日本語をまったく廃止して英語を公用語にすれば、海外との経済的な交流が深化され、「高度人材」の移住も進み、投資が容易になるため経済成長に裨益する可能性は非常に高いが、それはあくまで日本語が持つ全体的な価値より経済的な利益を優先するという判断がなされた場合にのみ実行されるべき政策であって、そうした社会的な合意なくして正当化されることはあり得ない。

次に、朝日新聞傘下のネットメディアであるハフィントン・ポスト日本支部が、アメリカ合衆国同性婚をしたゲイカップルに同性婚の意義を尋ねた記事がある。要点を抜粋して検討したい。

―どうして結婚という形を選んだんですか?
浩)愛し合っていれば結婚願望が訪れるのは、男女のように自然なことだと思います。あとは、例えば自分が突然亡くなったら、不動産を合法的に彼のものにできるようにしたかったということですね。(現在の日本では効力のない)アメリカであっても、パートナーに何か残せるものがあるといいですよね。

デ)18年付き合ってきたけれど、「浩二さんはあなたのボーイフレンド?パートナー?ルームメイト?」そう聞かれたときに「夫です」と答えたい。そのシンプルな理由です。

―お住まいの区に、パートナーシップ条例が制定されたら使いますか?
浩)もちろん使います。元々オープンリーだから、カミングアウトの問題もありませんし。

―子育てはしたいと思いますか?
浩)僕はしたい。でも、彼はそうじゃない。

デ)うん。ゲイカップルも、ストレートのカップルのように、子供を持ちたいか持ちたくないかを選べる。ケースバイケースですよ。

www.huffingtonpost.jp

 

こちらも、実利的な側面について議論に及ぶ必要はないだろう。「自分が突然亡くなったら、不動産を合法的に彼のものにできる」ことは、なるほど婚姻関係の果たしている大きな役割のひとつである。むしろ、注目すべきは、『「浩二さんはあなたのボーイフレンド?パートナー?ルームメイト?」そう聞かれたときに「夫です」と答えたい』という情緒的な理由である。この必要は、仮に同姓パートナーシップ制度が国法に取り入れられ、妻でも夫でもない「パートナー」なる*1立場が新しく創設され、名称以外の全ての側面において婚姻関係と同様の権利および義務が認められたとしても、なお満たされたことにはならないだろう。
こうした動機は、EMAによる説明にも見ることができる。彼らはそれを、『「結婚」という特別の響きを持つ関係性』という言葉で表現している。本稿では、これを婚姻の道徳的価値と呼ぶことにしよう。

同性婚と養子縁組制度

既に述べたように、我が国において同性婚は認められていないが、同性カップルの一部はすでに民法上の「養子縁組制度」を活用して、擬似的に同性婚と同様の法的関係を成立させている。同性カップルが養子縁組制度を活用した場合の影響について、セクシュアル・マイノリティ法務支援を担うゲイリブ団体であるレインボーサポートネット(RSN)は次のように解説している。

養子縁組のメリット
  • 法律上の家族になることができる
  • 養子は養親の財産を相続する権利を有する(その際、遺言は不要)
  • 養親は養子の財産を相続する権利を有する(その際、遺言は不要)
  • 共同の財産を作ることができる(例えば、不動産の購入など)
  • 入院や手術の際に、「同意書」にサインすることができる

など

 

養子縁組のデメリット
  • 将来、パートナーと婚姻(結婚)できなくなる 注1
  • 他に家族がいる場合、その者の理解を得にくい  注2

  • 苗字が変わる 注3


注1
一度養子・養親の関係になった場合、離縁したとしても婚姻はできないため、将来、同性婚を認める法律ができた場合のデメリットとなります。ただし、特例が認められる可能性はあります。

注2
養子縁組により、相続関係に影響が出る場合も考えられます。そのため、それを納得しない人が現れる可能性もあります。

注3
養子は養親の苗字を名乗ることになるため、それに付随する作業(例えば免許証などの書き換えなど)が発生します。また、職場などでの対応(例えば、カミングアウト)についても考える必要があるかも知れません。

など

rainbow-support.net

 

養子縁組のメリットを参照すると、これらが現行の婚姻制度によって男女に認められている法的な権利とほぼ軌を一にしていることに驚きを禁じ得ない。当然、扶養控除も(配偶者特別控除を除いては)利用することが許される。医療現場における「家族の壁」はしばしば同性婚賛成派の論者によって主張される論点であるが、養子縁組は「家族」形成するため、容易にこれを解決することができる。
一方で、デメリットとしては三点が(”など"を伴わない形で)挙げられているが、一点目については、同性婚が認められるような世論が形成された際に既に養子縁組を選択したカップルへの特例は認められないような状況は現実的に想定しづらいため、検討する必要性は高くないだろう。二点目については、現行の男女の婚姻にも同様のトラブルはつきものであるため、養子縁組に特有のデメリットであるとは考えにくい。遺留分を除けば遺言によって遺産の処分方法は裁量的に指定できるため、決定的な論点とはなりづらいだろう。三点目は、現行の婚姻制度も片方が氏を変更することを要求しているため、養子縁組に特有のデメリットとはいえない。同性婚の問題ではなく、夫婦別姓問題の問題として扱われるべき事柄である。

先述のゲイリブ団体EMAは、婚姻に伴う法的な権利義務関係として「同居・協力・扶助義務、守操の義務が発生すると同時に、遺産の相続権、被扶養配偶者として年金、医療、税の控除、労災補償の遺族給付」を挙げていた。権利の側面に関しては、養子縁組によって配偶者特別控除を除けば、ちょうど両親に扶養される成人した学生と同じように受けることができることがわかる。社会保険にも被扶養者として加入可能であるし、遺族厚生年金も失効しない。義務関係についても、刑法は近親相姦罪を既に廃止しているため、貞操の義務が発生しない以外はほぼ同様である。同居の義務は民法上では発生しないが、社会保険や年金、税金の被扶養者控除の条件として要求されている場合がほとんどであるから、実際的には発生するものと考えるべきだろう。義務というものは個人の自由権を制約するものであるから、貞操の義務が要求されないことは、フランスの民事連帯契約のあり方に近く、むしろ同性婚よりも養子縁組が優れている点として肯定的に評価されるべきだ。なお、どうしても貞操の義務に束縛されたい場合は、親子間で同様の民事的な契約を交わせば口頭であっても民法上の義務が発生するため、希望するカップルは任意にこれを契約することができる。

婚姻の道徳的価値

以上の議論を総合すると、我が国の同性婚状況は世界的にも奇異な状況に置かれていることがわかる。同性による婚姻が認められていないにもかかわらず、養子縁組によって通常の結婚を部分的に上回る法的な権利義務関係が手に入る。婚姻制度に劣る唯一の点は配偶者特別控除であるが、これは妻の年収が76万円以下であり、かつ夫婦の合計した所得が1千万円を下回る場合に3~38万円の所得控除を受けることができる制度であり、一国の婚姻制度を左右する論拠としてはあまりにも貧弱である。しかも、現在の与党はこの制度が女性の就労促進を妨げているとして、これを廃止する議論を進めている。
すなわち、驚くべきことに、我が国は「婚姻の道徳的価値」を除けば、同性パートナーに結婚とほぼ同様の権利義務関係の享受を既に認めているのだ。それでもなお我が国において同性婚を要求する言説があり得るとすれば、それは「婚姻の道徳的価値」の獲得を目指すもの以外にあり得ないだろう。

それでは、婚姻の道徳的価値の内容とは何であろうか。
これについても、EMA日本が先に引用した『「結婚」という特別の響き』について部分的な説明を加えている。

Q.
そもそも、「結婚制度」自体が時代遅れではないですか?

A.
夫と妻の性固定的な役割がなくなりつつあり、結婚=妻が夫の家庭に入って経済的に夫に女性が依存するという社会でもなくなってきました。また、社会や文化が結婚を当然視するとかいうこともなくなってきました。つまり、結婚制度は、古い社会の性固定的な役割意識や男性による女性支配を必ずしも意味しなくなっています。したがって「結婚制度」自体を否定する必要性は小さくなったのではないでしょうか。

今日においても、人々は「結婚」に感情的な意味や価値を見い出し、それにより社会的な認知を得て、文化的な関係を築くという意味は減じていません。つまり結婚制度は現代でも意味を有すると考えられます。

「結婚制度」は、世俗化や市場化の流れの中で、その性格を柔軟に変化させ続けることで持続してきました。同性婚を認めることは、時代に相応しい結婚制度の発展であると言えます。

emajapan.org

 

本稿においては「感情的な意味や価値」や「社会的な認知」、そして「文化的な関係」の内実に立ち入る必要があるのだが、どうも容易に説明しうる概念ではないようだ。欧州連合などが標榜する「共通の価値」の内実が自由主義だけでは説明できないことと同様の歯がゆさを禁じ得ない。また、その内実は少なくとも経済的、即物的なものではあり得ないから、それを享受している、あるいは誰かが享受しているのを目の当たりにしてそれを羨んでいる誰かにしか説明できないものかもしれない。
単に「結婚すれば周囲が祝ってくれる」ということが婚姻の道徳的価値の内実であるならば、以前報道されたようにディズニーリゾートのような同性婚に親和的な施設で挙式し、渋谷区に届け出を提出すれば事足りる。また、同性婚が許容されたからといって、同姓パートナーシップの成立や養子縁組の成立を祝福しない人が突然同性婚を祝福するようになるわけではない。つまり、社会的な是認や祝福はあくまで社会の同性婚に対する態度に依存しており、名前をパートナーシップ、養子縁組、そして結婚と変更したところで特定の同性カップルを祝福する人々の数が増えるわけではない。むしろ、アメリカでキリスト教保守派がそうし、イスラム過激派もそうしたように、敵意を露わにする人々が出現することも考慮して評価せねばならないだろう。

しかし、婚姻の道徳的価値について唯一確実に言明できることは、その価値が同性カップル本人らの主観的満足のためのものであり、公共の利益を増進する目的を持っているわけではないということだ。「パートナー」や「養子」から「夫婦」へと名前を変更することで満足感を得るのは、何らの齟齬なく「結婚」、ないしは「夫婦」という言葉が持つ「特別の響き」を消費することができるパートナーら当事者に他ならない。

婚姻の公共的性質

さて、EMAの議論によれば「これらの権利義務関係は、配偶者が異性である場合に限定する合理的理由がありません」としているが、この命題ははたして真であろうか。
たとえば貞操の義務は、子の養育はその子を出産した女性が単独で負担するものではなく、通常は夫婦で負担されることが想定されることから要請されているものと考えることができる。いわゆる「托卵」のような行為が横行すれば、実際に性行為に及んだ男女が生み出した負担のうち大部分を別の男性が負担することになる。一方、男性が既婚の女性といわゆる不倫に及んだ場合も他の家庭において同様の状況を生起させることになるから、男女双方に貞操の義務を課すことは合理的であると考えられる。同様の理由から、女性について離婚後一定期間の再婚禁止規定がある。

ただ、ゲイリブ運動は義務を増やすことではなく権利を増やすための運動であるから、まずは婚姻に付与される権利関係が「配偶者が異性である場合」に限定される合理的理由を探すことにしよう。
同性婚と婚姻の決定的な差異として、出産の有無が挙げられる。婚姻はその義務によってある男女に持続的な共同生活を要請するから、長い養育期間によって女性が稼得能力を失い、あるいは保育所などの費用のために稼得の一部を手放す必要に迫られるにもかかわらず、夫婦の相互扶助義務によって養育の完遂をかなりの程度現実的にする。仮に離婚があった場合でも、裁判所は子を手放す側の稼得の一部を、公平で予測可能な基準によって引き続いて養育する側に移転する。他方で、同性婚は生物的な制約から、子を出産し社会に新たな人口を供給する機能を持たない。他の夫婦が出産した子が同性婚の夫婦に譲渡される場合があるが、この機能は孤児院や既に子育てを終えた夫婦、あるいは既に実子を持っている夫婦など、子の養育を移転元の夫婦と政府に対して誓約することができる者であれば、誰であっても、いかなる人数によって構成される団体や企業であっても果たすことができる。
しかし、人口を再生産するという機能は男女による婚姻がなくては果たし得ない。卵子は特定の精子から受精する必要があるから、孤児院や保育所が無償かつ無制限に供給されたとしても、誰かしら出産させる意思がある男性が必要になる。科学的には、一部の男性の精子を保管した後に多くの女性に投与し、子は必ず政府に譲渡するといった方法によって婚姻によらない人口の再生産は可能であるが、それに男女が同意する見込みがないから現実的ではない。少なくとも「男女による婚姻なくして人口を再生産することは、現在までの人類史において可能であったことがない」という命題は真といえるだろう。

いうまでもなく、同性婚に関する議論においては、人口の再生産は社会にとって善である。少なくとも、EMAを筆頭とする同性婚賛成派の論者は組織は、同性婚に肯定的な北欧圏との出生率の差を根拠に「同性婚少子化を解決する」と主張することがある。EMAも我が国の少子化や労働力の不足を問題にしており、「高度人材の受入促進」が同性婚の効用として挙げられるのもそのためである。

同性婚賛成派によるかかる議論を前提にするなら、現在に至るまで社会に人口を供給してきた男女による婚姻に対して、ある種の肯定的な価値を認めないわけにはいかない。ところで、現行法において婚姻には様々な権利・特典が付与されており、社会的な祝福や「特別な響き」に代表される「婚姻の道徳的価値」も与えられているわけであるが、これは「不合理な差別」ではなく、人口の再生産という社会全体に対する貢献に対する恩典として説明することができるのではないだろうか。

事実として、男女による婚姻は現代の我が国においてもその貢献を続けている。合計特殊出生率の低下が叫ばれているが、これは未婚者の増加が主な原因であり、実際に結婚した男女が生む子の数量を平均した完結出生児数は70年代以来、ほぼ横ばいである。

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同性婚によって転倒する価値

既に説明したように、男女による婚姻は人口を再生産するという一点において、代替不可能な共同体的価値を有している。いっぽうで、同性婚によって同性カップルが「結婚の道徳的価値」を消費することは個人的な動機による個人的な価値である。
既に婚姻と同様の実利的価値を養子縁組によって享受することができる以上、我が国が同性婚を認めることは男女による婚姻に固有の恩典として唯一遺されていた「婚姻の道徳的価値」を、人口の再生産を担わないカップルに認めることにほかならない。その場合、当然ながら婚姻の道徳的価値は恩典としての機能を果たさなくなる。子供を有さない場合でも、婚姻によって道徳的価値を消費することが可能となってしまう。

婚姻の道徳的価値が、ゲイリブ当事者らの様々な努力―同姓パートナーシップ条例、ディズニーリゾート挙式、協力者らよる「夫婦」としての承認、当事者間による夫婦を模した振る舞い―によっても複製することができず、あくまで男女と同様の婚姻の枠組みに内包されることを運動の目的とするのはなぜだろうか。それは、婚姻の道徳的価値が当事者の内心や、アライと呼ばれる協力者らのような小集団によって生成しうるものではなく、あくまでも遍く共同体全体から与えられる徽章でなくてはならいからだ。民主的な国民国家の法制によって認められることは、なるほど記号的に「共同体全体からの承認」を表象している。
しかし、共同体に対して排他的な方法で利益を与える手段を持たない同性婚に男女による婚姻と同様の恩典を与えてしまえば、共同体への貢献を共同体が称讃し、個人への貢献を個人が称讃するという原則が崩されてしまう。

憲法によってあらゆる恩典や貴族を廃止した我が国において、制度が個人に対して道徳的な是認を与えることは非常に稀である。同性婚賛成派が主張するように、制度における婚姻が夫婦に実際的な便宜に留まらず特別な形而上的恩典を与えているのであれば、それは夫婦にしか果たすことができない共同体への貢献、すなわち人口の再生産に対して捧げられたものと考えるべきだろう。実際、この恩典は「花嫁」という言葉と結びつき、それに付随する想像とともに若い女性が結婚を志向する大きな文化的要因であり続けてきた。
同様の恩典を同性婚に対して与えてしまった場合、同性カップルの個人的な利益、あるいは同性カップルによる養育という他の様々な個人や団体によって代替可能な共同体への貢献に対して、再生産というかけがえのない貢献と同様の恩典を共同体が与えることになってしまう。
ゲイリブ運動は、我が国において同性婚を勝ち取るとほぼ同時に、そのことを祝し宣伝するための大規模な活動を行うだろう。それはおそらく、現在各地で行っている同性婚を要求するための運動やパレードと同様かそれ以上に大規模なものになるに違いない。同性婚が法制化されたとき、当然ながらゲイリブ勢力はかなりの政治力を持っていることが想定されるから、マスメディアも忌憚なくこれに協力するだろう。
そうすると、今まで子を再生産し、責任を持って育て上げてきた夫婦にとって、彼らに与えられていた名誉や恩典が陳腐化し、責任ある再生産という義務をもはや条件としなくなったことは火を見るよりも明らかになる。現在でも中年以上の夫婦が、「私は3人の子を責任を持って育て、社会に貢献した」という意味のことを誇らしく口にすることがある。同性婚によって失われるものは、こうした名誉感情なのだ。

かかる恩典が陳腐化し、様々な責任感や名誉の感情が失われることによって、男女による夫婦が実際どういう行動に出るかということを筆者は予測することができない。しかし、ひとつ指摘できるのは、欧米諸国でそうであるように、同性愛者が様々な異性愛者の権利を複製し、パレードなどを開催して自らの存在をアピールするようになるにつれて、それに反対する勢力との軋轢が増していくという事実である。6月12日に発生した米国オーランド市の銃乱射事件においては50人が死亡したが、容疑者の動機はイスラム過激主義というよりも、同性愛者への強い憎悪であったことがわかっている。いわゆるヘイトクライムは、アイデンティティ・ポリティクスの発展とともに成長してきたことを見逃すことはできない。
ゲイリブ運動に批判的な勢力の思想は、多くの場合単に宗教的な迷妄であるとか、共通の敵を作るためのプロパガンダであるとしてあまり検討されない。しかし、今までの議論を踏まえれば、本来であれば保育所や孤児院、その他小児の養育を行うあらゆる夫婦以外の個人・団体と同様の名誉・感謝にしか値し得ない同性愛者が、僭越的に夫婦と同様の恩典を要求することへの反感・不公平感という観点から説明できるのではないだろうか。

結論および「子無し夫婦」に関する附論

ゲイリブ運動が求めている「同性婚」の精神的中核を成す「婚姻の道徳的価値」は、いうまでもなく記号としての法制度の背後に事実としての社会全体による称讃、感謝の念が込められている。仮に政治力によって同性婚を勝ち取ることが可能になったとしても、同性婚が婚姻と同様の恩典を受け取り、貢献を僭称することに対して反感をもつ人々が消滅するわけではない。政治力の勾配によって不可視化されるだけである。そして、不可視化された不満は、時に暴力的な形で暴発する。これは在特会の起源や主張にも見られる一般的な現象である。
「婚姻の道徳的価値」は、それに対応する貢献をすることによってしか、事実としての承認を伴った形で得ることは出来ないだろう。だから、それを欲するのであれば、昭和時代の同性愛者と同じように異性と結婚し、子を設ける以外に方法がない。同性愛者が果たしうる公共的な貢献が別の夫婦あるいは異性愛者が生んだ子を譲渡され、責任を持って養育するということに留まるのであれば、社会から受け取るべき恩典は保育士や孤児院、あるいは現に養子を引き受けている夫婦の恩典から、夫婦であることによる恩典を差し引いたものと等価であるべきだし、実際のところ、同性婚を法制化したとしてもそれに対応する反対派の攻撃によって、自動的にこの水準まで押し下げられるだろう。それゆえ、筆者は同性カップルに対して、婚姻という既存の規範に無理矢理自らを挿入するのではなく、養子縁組制度や婚姻制度に類似する新たな民法上の関係を創設し、多くの同性カップルがその立場から養子を養育し、社会全体に貢献することによって、新たな恩典を長い時間をかけて形成していくことを勧めたい。

また、以上の議論について、子を持つことが確実に不可能な夫婦であっても、男女でありさえすれば婚姻が可能であるため、婚姻の道徳的価値と人口の再生産の対応性は既に崩されているという指摘があるにちがない。この指摘は、二つの点において誤っている。第一には、子を持つことが確実に不可能な夫婦が婚姻し、それを終生維持できるようになったのはごく最近のことであるということだ。現行の民法典が制定されてからも長い間、家系の維持を求める親族の圧力によって子を持たない、あるいは数年を経て持つことができなかった夫婦は解体させられ、別の異性との組み合わせで再度出産を試みることを要請されてきた。第二に、子無しの夫婦はゲイリブ勢力のように、自らの存在や特性をアピールし、宣伝することは絶対にしない。むしろ彼らは子を持てないことをスティグマとして認識しており、婚姻の交渉の際にも劣った身体的特徴のひとつとして扱われる。それゆえ、子無しの夫婦はちょうど同性婚に対する恩典が反対勢力の攻撃によって差し引かれるのと同様に、これらのスティグマによって差し引かれた形でしか婚姻の道徳的価値を享受していない。それゆえ、子無しの夫婦による婚姻は、婚姻の道徳的価値と人口の再生産の対応性を揺るがしてはいないのである。

本稿において、筆者は同性婚賛成派の議論を整理したうえで我が国における婚姻制度と養子縁組制度の関係を仔細にわたって検討し、同性婚賛成派の要求が「婚姻の道徳的価値」の一点にあることをあきらかにした。その上で、人口増が善であるという同性婚賛成派・反対派の間で意見の相違がない前提から出発して、「合理的な根拠のない差別」であると考えられがちな男 女による婚姻に対する形而上的な恩典について、人口の再生産という代替不可能な貢献に対する報酬であるという説明を提供した。かかる観点から同性婚に反対する勢力の動機や子無し夫婦の情緒についても一定の説明を与え、同性婚賛成派が求めるべき適切な運動目標を提案した。また、非常によく混同される同性カップルの「他者の子を譲渡されて養育する機能」と「最終的に人口を再生産する機能」を明確に区別して論じた。
ただし、本稿はフェミニズムやクイア研究と称する分野の先行研究や、婚姻の意義を追求した人類学の先行研究を参照し、あるいは前提としたものではない。あくまでも我が国の現代における婚姻と同性婚に注目し、短時間で入手できる資料を基に考察を進めている。また、中途で同性婚の経済的・実利的な価値についての議論に触れることがあるが、この点についてはくわしく検討していない。
道徳的な価値を毀損するとしても、その代償に大きな経済的繁栄が手に入るならそれを受容すべきとする議論も考えられ、また、大きな支持を受ける可能性がある。それゆえ、北欧諸国の出生率や経済成長と同性婚の関係については、同時に進行している移民の流入といったファクターの影響も踏まえたうえで厳密な因果関係を析出する作業が求められるだろう。また、近代以前において同性愛を許容する価値観や法制度が存在したことはしばしば指摘されることであるが、現代まで残り、反映している文明や宗教は、みな同性愛・同性婚を禁止するか、少なくとも好意的な立場はとらないものであった。同様の傾向は男系主義と女系主義においても観測できるが、これを人類学の立場から社会ダーウィニズムや自生的秩序の議論を前提に考察することも、実りある今後の研究課題となり得るだろう。

*1:名前は何でもよい

「情報の経済学」と倫理―合成の誤謬、合理的期待の視点から

今日は、いわゆる「善さ」、つまり道徳や美徳と呼ばれ、共同体によってその実践が推奨され、称讃の対象となるような倫理の起源について考察を加えたい*1

筆者の仮説は、「あらゆる倫理は共同体のおかれた外的環境の中で、長期的にはもっとも合理的な行動原理を抽象化したものに他ならない」というものだ*2。倫理や道徳といった事柄に限らず、宇宙そのものが特定の意思をもった主体によって意識的に計画・創造されたものではないため、「○○は××のために作られた」という命題は証明できない*3ため、ナンセンスな議論とならざるを得ない。そのため、ここで述べることは倫理が果たしていた多くの役割のうちの一つを言語化し、考察の俎上に乗せる試みにすぎない、ということをお断りしておこう。

属性と「善さ」の体系

さて、見渡してみれば、人は実に様々な属性を有しており、純粋に人間であるというだけの人はもはや発見できないだろう。我々は対象を類(類似する対象に共通する特徴)によって把握するからだ。

早速、小生の書庫の及ぶかぎりにおいて、古今東西の倫理を見渡してみたい。ひとまず、武士道の道徳についてみてみよう。紙幅の関係上、その詳細にまでは立ち入ることができないことをお詫びしたい。

武士道

武士道

 

 

武士道とは、武士が守るべきものとして要求され、あるいは教育をうける道徳的徳目の作法である。それは成文法ではない。せいぜい口伝によるか、著名な武士や家臣の筆になるいくつかの格言によって成り立っている。それは、時には語られず、書かれることもない作法である。それだけに、実際の行動にあたってはますます強力な拘束力を持ち、人々の心に刻み込まれた掟である。

武士道はどのような有能な人物であろうとも、一個の頭脳が創造しえたものではない。また、いかなる卓抜な人物であったとしても、ある人物がその生涯を賭けて作りだしたものでもなかたた。むしろ、それは何十年、何百年にもわたっての武士の生き方の有機的産物であった。

  1. 義ー「正義の道理」こそ無条件の絶対命令
  2. 勇ー「義を見てせざるは勇無きなり」
  3. 仁ー「武士の情け」に内在する仁
  4. 礼ー礼とは他者に対する思いやりを表現すること
  5. 誠ー誠とは実益のある徳行
  6. 名誉ー苦痛と試練に耐えるために
  7. 忠義 ー武士道では個人よりも国を重んじる
    (目次より抜粋)
ゴルギアス (岩波文庫)

ゴルギアス (岩波文庫)

 

快が善のためになされるべきである。

思慮節制ある魂は、すぐれた善い魂だということになる……思慮節制のある人というのは、神々に対しても、人間たちに対しても、当然なしてしかるべきことをなすであろう……神々に対してそうであれば、それは敬虔なことをなすのである。

なぜなら、そのようなことをする者は、ほかのどんな人間にも、また神にも、愛される者となることはできないだろうからだ。というのは、そのような者は、誰とも共同することができないだろうし、そして共同のないところでは、友愛はありえないだろうからだ。

しかし、賢者たちはこう言っているのだよ、カルリクレス、天も地も、神々も人々も、これらを一つに結びつけているのは、共同であり、また友愛や秩序正しさであり、節制や正義であると。だから、そういう理由で彼らは、宇宙を「コスモス(秩序)」と呼んでいるわけだ。

孟子〈上〉 (岩波文庫)

孟子〈上〉 (岩波文庫)

 

「惻隠の心は仁の端なり、羞悪の心は義の端なり、辞譲の心は礼の端なり、是非の心は智の端なり」 

「惻隠」(他者を見ていたたまれなく思う心)

「羞悪」(不正や悪を憎む心)または「廉恥」(恥を知る心)

「辞譲」(譲ってへりくだる心)

「是非」(正しいこととまちがっていることを判断する能力)

ひとまず、封建日本・古代ギリシア・古代中国の順に列挙してしまったが、まず注目すべきは、いずれの倫理も共同体の存在を所与のものとしていることだろう。一見当然のようで、このことは見逃されやすい。『ゴルギアス』で挙げられているのはプラトンの所謂四元徳だが、これらの徳の効用が「共同できる」ことや「秩序」に求められていることは強調されるべきだ。「自立した個人」に道徳も倫理もないのはむしろ必然のことというべきであり、逆に言えば、生存のために共同体を必要としなくなった豊かな社会においては、倫理もまた必要がないということもできるかもしれない。

話が逸れてしまったが、早速、我々の想像力の及ぶ限り、これらの倫理体系がはぐくまれた時代に遡ってみたい。もっとも手近なのは、やはり武士道の生きた封建日本の風景だろう。貴族社会であった奈良時代平安時代には武士道というものは存在しなかった。武士道が生まれたのは、律令制がその崩壊を隠せなくなった平安時代末期のことであった。

「家」の概念、主人としての父親を中心とした家父長制度の成立と主従関係 そのものの世襲的継続がその集団の団結を強固なものにしていき、そこに見ら れる献身の道徳が「武者の習い」として確立していく。

(船津明生『明治期の武士道についての一考察』)

ヨーロッパとは異なり、正統な権威であった朝廷の与える命令や役職がたちまち有名無実化した日本において、人々の生存を保障しうるものは土地と、それを守り抜く実力であった。先に引用した通り、武士道がはじめて筆記された形で表現されるのは江戸時代の山本常朝を待たねばならないが、それまでに何十年、何百年もかけて多くの徳目が醸成されてきたのだ。

思考実験として、もしその時代状況において、これらの徳目が欠けていたらと考えてみよう。もし元寇のさなかで、応仁の乱のさなかで、戊辰戦争のさなかで……勇気がなく、忠義や名誉を軽んじ、しかも礼や仁さえもたない武士がいたとしたら。

プラトンの説いた道徳は、武士道のそれとはことなり貴族階級を想定したものであった。二宮金次郎的な勤勉の徳がないのはそのためだろう。ちなみに、『ゴルギアス』の最後部にまとめて述べられているが、当時のアテナイではキリスト教の世界観を思わせるような天国・地獄への信仰があったことを述べておかねばならないだろう。魂が悪徳に満ちたまま死に至れば、地獄で相応の責め苦を味わうと信じられていた。貴族たちは生産活動をする必要がなかったが、かといって節制をおこたり浪費を続ければ、あらぬ災害によってたちまち奴隷の身分に落ちるようなことも稀ではなかった。また、アテナイの土地を防衛することは自由市民の義務であったが、ここで勇気がなければ、やはりスパルタの猛攻を防ぐことは叶わないだろう。

このように、様々な倫理体系が発生し、普及した当時の時代状況を振り返れば、その環境の中でそれらの倫理に従うことが生存のために合理的であったか、少なくとも非合理的ではなかったということにほぼ例外はないように思える。万が一合理的でない戦略を倫理化した共同体があったとすれば、たちまち他の共同体の攻め滅ぼすところになるだろう。また、災害の力が現在より大きかったであろうことも見逃せない。気象予報も防潮堤もない近代以前の世界において、地震津波、火災に対抗する手段は、祖先代々の言い伝えの中にしか見出せないだろう。筆記の力を持たない庶民階級にとってはなおさらであるし、紙、活版印刷の普及以前は貴族階級も同じ状況にあったことだろう。その好例として、東日本大震災においてにわかに注目された「此処より下に家を建てるな」と記された石碑を挙げることができるだろう。

高き住居は児孫に和楽、想へ惨禍の大津浪、此処より下に家を建てるな。 明治二十九年にも、昭和八年にも津波は此処まで来て部落は全滅し、生存者、僅かに前に二人後ろに四人のみ幾歳経るとも要心あれ。

この教えをまもった宮古市の姉吉という地区においては、実際に建物被害が全くなかったという。多くの倫理は父祖の尊重を説き、また神格化することさえ稀ではないが、こうした背景を思えばまったく不思議ではない。

かかる事情を考慮すれば、倫理の体系が果たしてきた役割は、以下の二点に集約できるのではないだろうか。

【倫理の二大効用】
  • 合成の誤謬の防止
    (戦場において自分だけが逃走すれば間違いなく助かるが、全員が逃走すれば共同体が滅ぼされてしまう)
    (農耕に勤しむよりも他者の農地から収穫物を盗んだほうが楽であるが、全員がそれを期待して農耕を放棄すると、全員の食糧が欠乏してしまう。)

  • 合理的な長期的期待の形成
    (食べることは快だが、かといってそれを毎日節度なく続ければ肥満し寿命を縮めてしまう。しかし、その必然は実際に経験するまで認識できない。時間を通じた合成の誤謬の派生である。)

人間の本能は不完全である。本能は人間を生物的な危険から防ぐ働きがある。快苦は本能からもたらされるシグナルだ。空腹の苦痛を克己心やら何やらと言って無視し続ければいずれは餓死に至るだろうし、トレーニングといって肺の痛みを抑えて走り続ければ、遠からず喀血して地に伏すことになる。とはいえ、餓死を恐れる本能にしがって四六時中摂食を続けては肥満、虫歯、高血糖などあらゆる病気の出迎えるところになるし、体の損傷を恐れてまったく外出を怠れば、たちまち起臥すら困難になる。

一方で、理性の恣意をもってしてもなお、人間の行動は合理的たりえない。ある魚は食べられた、次の魚も食べられた、ではこのフグも……といって"帰納的に"中毒死した者は幾人にも上るだろう。人間の生産活動に必要であった自然環境の中には、経験によってしか予知しえない危険が多くあった。それらの経験を交換・継承するために共同体は不可欠であったことだろう。情報は常に有限であったため、いかに思慮を尽くし、本能を克服してもヒトは個人で生存することができなかったのである。

現代は、上記に説明した倫理のはたらきが、ますます必要でなくなっている時代だといってよいだろう。印刷やインターネットの普及によって、先祖代々の口伝や同輩の忠告に耳を傾けずともある程度合理的な行動を選択できるようになった。そのうえ、自国のみならず世界中の歴史を母国語で参照できるのだ。情報の不完全性はほとんど克服されているが、「コミュ力」がないよりはあった方がよい、という程度の状況であろうか。

一方で、現代においても必要とされており、実際にある程度「生きている」倫理もいくつか挙げることができるだろう。それは「勇気」や「勤勉さ」といった種類のものだ。「ニート」という言葉にいくばくかの非難の意が込められているのも、親の蓄財があるからといって誰もが働くのをやめてしまえば、貨幣は交換すべき対象を失い、蓄財は等しく紙くずに帰してしまうからだ。国防の必要性は今なお色あせないばかりか、ますますその重要性を増しているように思われる。

倫理は共同体の中で共有され、個々人の道徳として学習される必要がある。しかも、それぞれの徳目の間の優劣の関係も共有されていなければならないだろう。さもなければ「共同」が困難になるからである*4

乱文をお詫びしつつ、本日はここまでとしたい。別の機会に、現代のリベラリズムフェミニズム運動がなぜ社会規範を部分的にしか解体できないのかということを明らかにしてみたい。

*1:つまり、個々人の内心レベルのポリシーは道徳、その中でも共同体によって承認されているものを倫理と呼んでいます。だからこそ不道徳という言葉あっても不倫理という言葉はないのですね

*2:友人に話したところ「ようはマルクスの言っている、下部構造が上部構造を規定するってやつだよね」と指摘された。そうなのかもしれない。

*3:「あらゆる生の目的は種の保存である」ということも同じく証明できないでしょう

*4:国家も家族も大事なのですが、家族>国家と家族<国家の兵士が混在していたのでは、警察や自衛隊すら機能しないでしょう

「生きづらさ」の問題および共同体からの排除の条件

ジェンダー系の勉強をしている友人と久しぶりに食事をともにしたので、一般的なジェンダー規範からの逸脱、また、それを公にしていることがいかなる不利益を及ぼし、かつそうした不利益をパレート改善*1的に回避するためにはどうすればよいかについて、少しの考察を試みたい。

パノプティコン・モデル

一般的に、共同体における個々人の行動を無言のうちに規定する圧力を説明するために、フーコーが提唱したとされるパノプティコンのたとえが使われる場合が多い。これは刑務所のシステムの一種で、ドーナツ状で各部屋に仕切りが設けられた独房があり、なかでもドーナツの中央にのみ見張りの窓が設けられており、中央の部屋には看守がいて、いろいろな独房をランダムに覗いているが、囚人の方ではいつ自室が監視されているかは知りようがないため、いつ覗かれてもよいように常時適切な態度を取り続けるしかない。

同じように、共同体の中で人々が常に、特に賞罰権のある人物の前でなくても特定の行動様式を定着させることには、あたかもこのパノプティコンのようにいつ露見の憂き目に合うか知ることができず、かつ、これに囚人同士の噂、密告という要素が加わることにより、共同体の誰もが看守たりうるという状況が存在するといえるだろう。

ふつう、こと性的なことに関して異端であることが露見すると、大きな不名誉を被ることが多い。成人用ビデオの趣向に関することであっても、それが一般に認められていない種類のものであれば、あらゆる意味における中傷の的となる。

ただ、ごく普通の成人男女向けのものであれば、異端視される種類の嗜好は数えるばかりのものに限られるが、それが同性愛者向けのものであれば、異端視されない嗜好というものは恐らく存在しない。成人用ビデオの話に限らず、客観的な性別にそぐわない服装や言葉を利用することにも、同様の不利益が伴うだろう。

「不利益」とは何か

一般的に不利益と呼ばれるものには、実際のところどんなものがあるだろう。個別具体的な事柄を挙げてゆくときりがないだろうし、ここで賃金収入の比率を持ちだして云々することが有益であるとは思えない。そこで、可能な限り抽象的な言葉でまとめてしまうと、それは共同体から排除されることだと思われる。

共同体からの排除というものは、常に利益からの排除を伴う。家から破門されれば分業集約の利益が失われ、家賃を新たに稼ぎだし、慣れない家事をする必要が生じ、労働に充てられる時間も気力も以前より少なくなる。職場や学校から追放される場合にも、同じことが生じる。この理由は単純であり、そこに何らかの利益がなければ人は共同体に参入しようと思わないし、家族であっても利益が失われ、回復の見込みがなければ、離婚や家出などの手段を用いて自発的に脱退してしまうことがほとんどだからだ。だからこそ、自発的でなく突然に排除されることは、いつも個人にとって打撃を伴う。

同時に、共同体から得ていた精神的な承認も失われるが、最悪の場合は信頼していた人物がとんでもないペテン師だったということを知ることになり、極めて大きな衝撃を受けることがある。ただ、共同体から排除される場合というのは、既に承認を失った後である場合がほとんどであるため、この過程は正式な排除の前段階に位置づけられるべきかもしれない。

共同体からの排除というものは、第一に共同体と同じ価値観を表明していないことを宣言することで開始され、第二に共同体内で批判・嘲笑の手続きが行われ、第三に、とうとう正式に除名を申し渡される。これは、多くの職場や学校で一般的に見られる光景であろう。

第一の不利益:承認感の喪失

人が人に与えるところの承認は、通常、同じ価値観を持っている人に対して与えられる。ソクラテスさえ、まったく別の価値を奉じている人間同士は、議論をしたところでお互いにばかにし合うだけであると述べている。やはり、同じ行為や目的を是としているという前提があるからこそ相互に評価しあう事ができ、それにともなって相互の尊敬や競争、妬みが発生しうる。まったく別の価値体系を有しているとすれば、それは自己の妨げにならないかぎりは敵意の対象ですらなく、無関心の対象だ。

つまり、性的なことであれ実用的なことであれ、一定の程度を超えた部分においてその共同体の規範的な価値を否定すると、その構成員からの承認は段階的に失われてゆくことになる。松屋吉野家についての意見の対立さえ、人々の心を少しは引き離してしまうものだ。それが人生観についてのことになってくると、その溝はいよいよ大きなものになってくるのだろう。

その事柄の大小、重要さを決定するものは、やはりその問題がその枝先にどれほど多くの分子を持っているかによって決まるように思える。例えば、トヨタ車とベンツ車の選好についての対立は、安全性を重視するかデザイン性を重視するかというより上位の概念的な対立に包摂されうる。同じように、性的な事に関する対立は、そこから派生する対立として、服装から立居振舞い、言葉遣いまで、ありとあらゆる点に何かしらの違いをもたらす。そのことを本能的に察知しているからこそ、性的なことに関して基本的な価値観を共有できないと知った時、人々の間には排除の作用が自動的に働くのではないだろうか。

第二の不利益:批判・嘲笑の手続き

共同体とかけ離れた価値を奉じていることが露見すると、時を置かずして具体的な批判や嘲笑に遭遇することが多い。これは、共同体の中で、対象が逸脱者であると判断した構成員が3人から4人を超えると始まることが多い。対象が既に有している味方の数にもよるが、一般的に2.5倍以上の人数比になると、具体的な攻撃を開始するだけの勇気が得られるようだ。

この過程においては、時ごとに明らかに敵対的な態度を取られたり、文章や口頭における言葉遣いがえらく厳しいものになったり、自分の居ないところで痛烈に悪口を言われたという情報が耳に入るようになる。そうこうしているうちに共同体の全員が敵になってしまったかのような錯覚を覚えるが、これは錯覚であるとも限らない。実際のところ、2.5倍の差が開き、この第二段階に入った時点で趨勢はある程度決している。数は理論よりも雄弁である。

第三の不利益:追放、利益からの排除

多くの場合は、まるでリストラが確定した大企業のサラリーマンのように、人は第二段階に事態が進展したことを知るやいないや、新たに所属できる共同体を発見する作業を始める。人によっては、共同体を新たに作ることを試みようとする。

しかし、様々な都合でそれが困難であったり、怠惰であったりすると、この作業が進まないままに第三段階を迎えてしまう。それは共同体からの正式な追放だ。

職場であれば解雇、学校であれば放校、家族であれば絶縁という具合に、基本的にあらゆる共同体には追放の手続きが定められている。もし学則とか服務規程といった明文の規定に反していれば当然より早い段階で追放の手続きが取られるが、そうでない場合も最終的には追放の対象となるようだ。この時、明文の規定や規則というものが、追放を単なる感情的なものではなく正当かつ当然のものとして演出するために利用される場合が多い。

「価値観の決定的相違」が本当の理由であっても、少なくともリベラル的な多くの立法は、これを解雇その他の理由として認めない。そこで、普通であればめったに適用されない有名無実化した規則の一文を利用し、あるいは実際にあった行為を誇張・再構成した上である処罰規定に該当すると宣言し、反論の機会はろくに与えられないまま追放となる。

先にも述べたように、人は基本的には利益があるために共同体に所属している。第一、第二の段階で精神的な承認が失われたのにそこに踏みとどまっているのは、実物的な利益があるためだ。ゆえに、第三段階ではとうとうその利益から引き剥がされることになる。

共同体の権利

こうしてみると、あたかも暴力的な共同体が弱い個人を痛めつけているかのような印象を受けるが、必ずしもそういうことであるとは限らない。

第一に、これは自由主義の立場、実存主義の立場を問わず言えることだが、共同体はその構成員を選択する権利がある。より端的に言えば、多数派には少数派の処遇を決定する権利がある。

自由主義を前提にするならば、ある個人が誰に承認を与えるか、誰を時間を割くべき相手として選択するかは、当然ながらその個人の自由だ。そこで、多くの人の選好が偶然一致し、誰もが彼を相手にしたくないと考えるなら、事態は自然のうちに先述の第二段階に進展することになるだろう。これは個人の自由な権利の行使が等差数列的に増幅された結果であり、道徳的の批判の余地を残さないものだ。

実存主義を前提にするならば、人が生きるのはその目的を実現するためだ。そこにおいて、共同体は同好の士を集め、研鑽を積み、励まし合うために存在するというべきだろう。しかしながら、根本的なところで価値観が相違する他者の存在は、時に生の目的そのものへの批判、すなわち実存の否定を起こしうる。価値絶対主義を奉じる人にとってはそれは真理への接近の過程なのかもしれないが、相対主義の立場をとるなら、人生観を異にする人同士は距離をおいてめいめいの道を進むことが是とされる。

価値絶対主義を真理として啓蒙するのであれば以下の批判は回避できるが、そのためには人間そのものが何らかの究極的目的をもって作られたという科学的な証明が必要だ。

つまり、絶対的啓蒙主義以外の立場を取る限りは、共同体によるこうした排除の作用を道徳的な悪として批判することは非常に困難であるように思える。また、いかなる場合でも寛容であれと命ずることは、同時に自らが多数派の立場を占め、考えられる限りにおいて最も受容しがたい他者が自らの領分に入りこんだ時にも、以前少数派として主張した寛容主義を徹底し、あくまで排除を試みないことが名誉の条件となる。少なくとも筆者には、その大きなリスクを受け入れる自信がない。それよりは、自らが排除される可能性があり、一方で自らも好ましくない他者を排除しようと試みる権利があるような社会のほうが、長期的には、よほど生きやすいように思える。

異端性の表明の是非

以上の議論においては、人が共同体と異なる価値観を持っていることがただちに露見するかのような前提において議論を進めたが、実際にはそうではなく、異端性は露見させようと考えなければそう容易には露見しない場合がほとんどだ。

宗教と政治の話はするべきでないと言われることが多いのはこれが理由だ。政治観や宗教観の相違は、人の行動のあらゆる点で差異を呼び起こす。ゆえに、一旦この相違が明らかになってしまえば、共同体の追放行動が開始されるか、数が互角なら分裂への道を辿ってしまうことも多い。今でも、きわめて極端な左翼思想を持っていることがわかると、ほとんどの共同体で"赤い"として拒絶されることはよく知られている。

それゆえ、人は共同体の中で、きわめて色々な種類の価値観を隠蔽して暮らしている。"自分らしく"生きる事ができるのは、多くの人にとっては自室だけであるか、ごく親しい友人との席だけである場合がほとんどだ。

その意味において、性的な言説が解放されており、その趣向を自由に表明できる状態を前提とし、自分たちにはそれが許されていないというクイア研究の主張は少し傲慢かもしれない。一般には男たちばかりがそれを表明する権利を独占しており、職場のありとあらゆる場所でいい女がどうの、お前はホモかといったようなことを述べているとされるが、実際にはその中で最も有力な男の嗜好に皆が妥協し、うなずいて見せているだけかもしれない。あるいは、その共同体は一定の割合において、そうした嗜好を共有し、促進できるようにするために作られたものなのかもしれない。こうした傾向は、まれにブルーカラーの職場において見受けられることがある。

共同体の目的を決めるのは共同体自身であり、その権利が存在するという前段の議論を確認するのであれば、そこで共有される価値観や言説が必然的に自己を疎外していることは、あらゆる意味において仕方がないことだ。唯一の選択肢は異端性をあえて露見させないことであり、それは多くの人が毎日実際にそうしていることでもある。

実際のところ、人々のあらゆる価値観を図表で閲覧することが可能であるとしたら、人はあらゆるところで意見の対立をはじめ、学校や職場のひとつも作ることができないだろう。しかし、人間は群れなければマンモスの一頭も射止められない弱い存在だ。そこで、いわばシングルイシュー的に特定の価値に賛同する者を募り、他の対立軸は考えないものとして人々が協力するというあり方の共同体が発生したのだろう。

共同体において一定の我慢は必須であることはもはや明らかだ。重要なのは共同体が称揚するいくつかの主要な価値観に自己が賛同できるか否かであり、性別に関することでも政治・宗教に関することであっても、その共同体に本来必要でない対立軸についての意思決定を迫るようなことをすれば、何の利益も生まないままに少数派がつまみ出される結果しか招かないだろう。

国家という特殊共同体

今まで問題にしてきた共同体は、職場や学校など、自由意志によって加入し、自由意志によって離脱するものを前提としてきた。家族に加入することは自由意志でない場合もあるが、少なくとも離脱することは比較的容易である。だからこそ、排除される場合は他の共同体に加わって利益を得ればよく、必要であれば自らそれを立ち上げるという可能性が残されていた。

一方、国家や民族といった共同体は、共同体として共通の価値を追求し、あるいは連帯責任的に共同体全体が称賛や非難の対象にされるなど、共同体としての役割を果たしていながらも、そこからの離脱や別の共同体への加入はほとんど不可能であるという特徴を持つ。追放の規定も持たない。

ここにおいて、性的少数者の問題は非常に悩ましい問題を惹起する。つまり、個人にとって完全に所与のものであり、引き剥がすことも貼り直すこともできない国家、民族という共同体において、性的少数者の間でのみ共有される性的規範は、必然的に異端性を有する。それ故に、今までは歌舞伎町二丁目や幾つかの公園の特定の時間帯や、あるいは路地裏のひっそりとした雑居ビルのような、可能なかぎり社会に動揺を及ぼさない場所で、性的少数者の規範はひっそりと共有されてきた。

一方で、政治的、ないしは宗教的な少数派についても、一般的にはこれと類似する状況にあった。たとえば、基督教会は、日本において長い間追放の対象であり、信徒は反政府的であるとして取り締まられる状況が続いていた。今では存在を許されているが、これは国家が宗教について中立の立場を取ると宣言し、実際にそうしているからに他ならない。法によって共同体で共有されざるべき対立軸を正式に定めることで、個人と切り離せない国家、民族といった共同体から、性的規範の相違ゆえに排除される人をなくすことができる。

ところが、国家が宗教について中立の態度を取ることは、一種のニヒリズムを導入する原因にもなり得る。実際、宗教について中立の立場を取ったソビエト連邦や日本では、単に合理的というだけで何の色彩も持たない建築物や家具が普及しつくし、人々は文化的なものに飢えるかのようにかろうじて軽はずみな破壊を免れた歴史的建築物へ好んで旅行している。一方、今なお教会税の制度を持つドイツの町並みは基督教的な色彩に彩られた町並みが残されており、戦争で破壊されてもまた同じような町並みが復活する。日本には江戸時代の伝統を残していると主張する川越という街があるが、この市街の惨状と欧州諸国を比較するとたちまち憂鬱な気分となる。また、欧州の中でも最近のうちに、国家の宗教的中立を宣言したフランスは、これからますます雑多で、色彩を失った国家となるだろう。隣国ドイツとの長期的な比較はきわめて有意義なものになるだろう。

同じように、国家が性的規範について中立の態度を取るということは、乱婚や非嫡出子の増加といった性的頽落をはじめとして、既に始まりつつある恋愛至上主義による選好の激化、出生率の致命的な低下といった問題を引き起こす可能性があるように思える。この実験はジェンダー・ロールからの解放という意味においては既に始まっており、これは先述の恋愛至上主義を引き起こした。これが更に解放され、家庭科や国語の教科書においてスカートを履いている男性が一般的なものとして教育されるようになれば、恋愛至上主義が前提としていた男から女、女から男への欲情さえも脱構築されてしまうこととなり、性的少数者にとって空前の生きやすい社会が到来する一方、非婚化の傾向は勢いを増すばかりだろう。実際のところ、古代ギリシアや中世の日本では男色が流行したことで知られている。この男色は上流階級の特権的なものであったため人口学的な危険は招かなかったが、人は実のところ、明確に同性愛者ではなくても、同性同士の欲情で一定程度の満足を得られてしまうということが示されている。これは、「性的指向とはグラデーションである」というクイア研究の言説と奇妙な一致を見る。むろん、同性愛が大衆化してしまえば、ただでさえ維持できないことがわかっている人口減少が、完全に破綻することは火を見るより明らかだ。

人口減少は当然ながら経済的な不都合をもたらす。労働者の数が不足すると賃金が上昇し、資本の利潤は減少する。すると資本家は新たな投資が行えないため経済成長は困難になる。本来であればここで政府が介入し、徴税で多くの労働者から集めた財源で公共事業を行って資本家の利潤を取り戻し、安定的な成長の見通しを与えることで再び投資を拡大するように仕向けなければならないが、現在ではこうした市場介入の考え方はあまり好まれないし、国際金融市場の発達によって、ひとつの政府が国内市場にもたらせる影響はあまりにも小さくなっている。

すると、人口減少による不都合を解決するためには、人口が余剰となっている他国から移民を受け入れるしかない。しかし、先ほどの仮説が正しければ、性的規範に対して中立を選択する民族共同体は、少なくとも人口増の傾向を持つことができない。すると、人口が減少する国に移民を輸出する国は、必然的に性的規範に対して国家共同体が介入する伝統的な国家でしかありえない。現在、欧州諸国にイスラム圏からの移民が大量に流入していることがこれを雄弁に疎明している。

しかし、こうした人口移動が長期的に継続されると、遠くないうちに性的規範について自由な国民は少数派に転落してしまい、新しく流入した移民の代表が政治的に発言力を持つようになる。そうなれば、せっかく構築された性的規範に対して中立な国制は、たちまちのうちに解体され、振り出しに戻されてしまうだろう。

これは性的なもの以外、たとえば料理や言語といった民族に固有な文化が国家という王冠を失い、衰退してゆく過程でもある。正式な駅名や市町村名を奪われた地方がその精神性を維持していくことが困難であるのと同じように、国民国家としての地位を追われた民族は、その多くが多数は民族に吸収されるか、あるいは民族浄化の対処とされ、長期的には百科事典の一頁に収められる運命にある場合がほとんどだ。こうした理由を踏まえれば、国家という避けられない共同体において性的少数者の生きづらさを取り除くことはあまりにも困難であるように思えてならない。

所得分配政策の可能性

ところで、共同体に所属する大きな理由の一つに、実物的な利益の存在があることは既に述べた。逆説的に言えば、利益を受ける必要が無いほどの富が既にあれば、精神的な承認を別にすれば、もはや共同体に所属する必要はないのだ。

そこで、性的少数者の困難を取り除くために、国民国家の性的規範を脱構築するのではなく、社会制度に異議を唱えない約束と引き換えに圧倒的に多額の年金を保障するという解決策が考えられる。この方法によれば、性的少数者は望まない共同体、つまり性的規範が少しでも共有されている職場や学校に所属しないで済むばかりでなく、国家内の性的な喧騒からも自由となり得る。精神的な承認を得るためには、同じように年金を手に入れた性的少数者と同じ場所に豪邸を建設すれば満たされるだろう。その土地の候補としては、今では廃れしまったかつての楽園、ナウルや、その他購入できるあらゆる別荘地が挙げられる。

当然ながら、彼らが生まれ育った土地や家族と別れることは辛いだろう。しかし、本当に残念なことではあるが、性的少数者が地域や家族から排除されるのは、地域や家族がその性的少数者を必要ではないと判断したからに他ならない。先ほど述べたように、絶対的啓蒙主義の立場に立つのでないかぎりは、地域や家族が誰かを拒絶する権利を否認することはできない。

しかし、国家、民族という共同体はその構成員を誰も排除できない。それゆえ、全員に平等な幸福を保障するべき、誰と立場を入れ替えても問題ないようにするべきというリベラリズムの立場からも、その他の立場からも、上に述べた再分配・年金政策は検討されるべきではないだろうか。

*1:誰も嫌な思いをしない方法で誰かの好ましい思いを増やすこと

無秩序に膨張する「暴力」概念に関する考察:ヨハン・ガルトゥング批判

  

  1.  本稿は、ヨハン・ガルトゥングの著による『構造的暴力と平和』、そこに収められている4つの論文の中でも「暴力・平和・平和研究」に的を絞って批判するものである。経済学の分野にも足を踏み入れたあと3つの論文――「帝国主義の構造理論」「冷戦・平和・開発」「東欧1989秋」も興味深いが、特に「暴力・平和・平和研究」を選択したことには理由がある。

     最大の理由は、「暴力・平和・平和研究」が現在のことを扱っているのに対して、他の論文はもっぱら過去のことを扱っているからだ。筆者の世界認識に根ざした新規性のある批判を展開するためには、筆者の生年よりも前のことをあれこれの資料を通じて考察するよりも、眼前に広がる現実、体験を踏まえてガルトゥングの論文を考察するほうが、遥かに都合がよい。もちろん、帝国主義と極めて類似する中心――周縁の不平等の問題は今なお形を変えて存在するかもしれない。だが、搾取の構造をいかに是正するかという、我が国でも多くのリベラリストが熱中している議論に先んじて、そもそもなぜ「搾取」が是正すべき問題となりうるのか、という点を検討する必要がある。筆者の思うところでは、搾取や不平等が問題であるということは自明の理とされており、平等主義の哲学的根拠を自己の言葉で明確に示せる人物は、それほど多くないように察せられる。そこで、ガルトゥングによるかかる論文は、不平等の是正、暴力の解消といった世界の「リベラル化」のあらゆる具体的な方法論よりも、論理的に重要な位置を占めるといえるのだ[1]

     そこで本論は、読者が「暴力・平和・平和研究」(以下「論文」と呼ぶ)を読了していることを前提に、我が国における「暴力」やその周縁的概念の拡大を指摘し、「暴力・平和・平和研究」にその原因の一端を発見することを目標とする。

  2. 暴力とは何か――膨張するその定義

     我が国において、「暴力」という言葉は極めて狭義であり、強烈なインパクトを有するがゆえに、社会においてそれほど広汎な意味を表す言葉として利用されていない。ゆえに、”Violence, Peace, and Peace Research”における”Violence”の概念を、日本語における「暴力」と合同だと考えてしまっては誤解に陥りがちだ。例えば、日本語における「性的虐待」は”sexual violence”である。また、『斎藤和英大辞典』において、「殺伐な人」の例文として” a man of violence”が充てられていることも興味深い。ガルトゥングは英語における巨大な”violence”の概念を解体・整理することに骨を折ったが、日本語における「暴力」は当初よりガルトゥングが言うところの「直接的暴力」とほぼ同義であり、それ以外のviolenceには他の周縁的な語彙が充てられていることに注意を払う必要がある。

     以上を踏まえた上で、現在我が国で進行している奇妙な現象について考察したい。それは、「暴力」やその周縁的概念が、時代の流れとともにその範囲を拡大してゆく現象である。ここでは「暴力の概念的膨張」と呼ぶことにしたい。10年前は暴力でも何でもなかったものが、気がつけば「暴力」に回収され、糾弾の対象となっている。事前に何も知らされないうちに、突然「加害者」とされてしまう。「暴力」の定義が、刑法典に定義されているような厳格かつ明確なものから、事後的かつ恣意的に決定できる、被害者(であると主張する側)にとって一方的に有利なものへと変貌を遂げつつあるのだ。

     その代表的な例として、いわゆるセクシャル・ハラスメントが挙げられる。セクシャル・ハラスメントとは、刑法における強制わいせつ罪――成立の要件として、暴行ないしは脅迫の存在を要求し、「わいせつ行為」の定義も判例と(男性側の視点も含んだ)社会通念において拘束される――とは異なり、「相手方の意に反して性的な言動を行なうこと」と定義され[2]、当事者のうちの一方が恣意的に認定できる性質を帯びている。たとえば、女性に対して「今日はおしゃれだね」と声をかけることも、容易にセクハラとなりうるのだ。労務問題を専門とする東京都の弁護士法人が顧客向けに作成した資料によれば、弁護士法人は顧客から質問があった事例をセクハラであると断じた後、このように解説を加えている。

    <セクハラとは、「相手方の意に反して性的な言動を行なうこと」であり、具体的な判断基準としては、「相手方(被害者)が不快に感じ……相手方の価値観を基準として性的な言動に該当すること」であると言われています……極言すれば女性がセクハラだと感じる言動はすべてセクハラに該当します……相手方が不快感を持っている以上、全てセクハラに該当するのです>(……は中略を示す)
    弁護士法人が顧客向けに与えるアドバイスは、当然の事ながら現在の判例や司法・警察界の動向に即していることは言うまでもない。女性が事後的に「性的」かつ「不快」だったと一方的に認定されるや否や、職場を解雇されたり民事訴訟で有責を言い渡されたりするという社会的事実が既に存在することの証左だ。

     しかし、本来「セクハラ」は、より明確な具体的行為を要件としており、また、被害者が不快感を持っているか否かも、「抵抗したか」「拒否したか」という客観的な基準によって判断されていた。加害者側に自制を促すのみならず、被害者側にも「はっきりNOと言おう」と呼びかける声があった。ガルトゥングの論文から20年後の1989年、朝日新聞の誌上に『「ウチのセクハラ」、社内報で特集 広報課の女性コンビ企画』なる記事が掲載されている。記事によれば、京都中央信用金庫の社内で男女同数に対して行われたアンケ―トの結果として、「あなたにセクシュアル・ハラスメントの心当たりは?」という質問に対して、男33%、女38%の割合で「ある」と答えている。また、「どんな行為がセクシュアル・ハラスメントになると思うか」という設問に対しては、男女とも3分の2以上が「身体に触れる」ことをあげた。そして、社報には女子社員に対して「しつこい相手にははっきり不快感を告げましょう」との呼びかけが掲載された[3]

     セクシャル・ハラスメントがこのような明確な定義を有するものであり、その定義も全当事者、すなわち国民の議論によって決定されるものであれば、誰もが何をしてよく、何をしていけないかが事前にわかるのでセクシャル・ハラスメントは発生しにくくなる。しかし、片方の当事者、多くの場合女性が事後的に定義するもの――女性がセクハラだと感じる言動はすべてセクハラ――であれば、男性は何をするにも、極度に萎縮せねばならなくなる。同じことは痴漢冤罪という形でも発生しており、今や「痴漢冤罪保険」なる保険商品が人気を博している[4]

     また、この動きは我が国のみに留まるものではない。人権問題について「先進的」であると理解されているフランス共和国では、早くも1992年には刑法典が改正され、いわゆる「強姦罪」の定義に重大な抵抗が加えられた。フランスの強姦罪は被害者・加害者の性別を問わない「性的貫入行為」とされているが、それが和姦ではなく強姦であると証明するために、「被害者の激しい抵抗」を要件としていた。しかし、この改正によってこの要件は取り除かれてしまった[5]。つまり、例えば合意の上で男女が性行為に及んだとして、それによって得られる快感が不足していると感じ男性に不満を覚えた場合、男性を「迅速で,安上りで,証明力が容易で,効果的5」な刑事訴追によって告発することができる。法改正以前であれば、ラブホテルの受付嬢が体を寄せあってホテルに入る2人を目撃していれば客観的に解決した問題が、証明しようのない本人たちの「気持ち」を問題とする泥沼の審理に引きずり込まれる。我が国ではセクハラ・置換といった限定的な状況でしか想定出来なかった事態が、外国では既に強姦罪という刑法上最大の処罰が検討される事柄に関してまで拡大しつつある。

     ここでは「セクシャル・ハラスメント」を例に取ったが、”violence”の概念は客観的・先験的なものから、主観的・事後的なものへと確実に「膨張」しつつあることがわかるだろう。

  3. ヨハン・ガルトゥングの定義が孕む問題点

     今ごろ、読者諸兄の中には、あまりにも長大なセクシャル・ハラスメントの話に呆れ果て、ヨハン・ガルトゥングの話はどこへいったのだという疑問を持つ者があるかもしれない。至極まっとうなご指摘だ。そこで、前項で解説した、「客観的・先験的なもの」から、「主観的・事後的なもの」へと定義が膨張してゆく現象に、平和研究の開拓者として大きな影響力を有するガルトゥングが定義したところの”violence’がもたらした影響の考察に入りたい。

     ガルトゥングは、論文で「暴力」の定義の重要性について、以下のように述べている。

    <そこで、すべてが「暴力」をどう定義するかにかかってくる……しかしながら、誰もが同意する定義あるいは類型を示すことはそれほど重要ではない……より重要なことは、理論的に見て暴力のどの側面が重要であるか示し、思考、研究、そして可能ならば行動をもっとも重要な問題に向けることを可能にすることである。もし平和行動が暴力に反対する行動であるがゆえに高く評価されるべきであるとするならば、もっとも重要なイデオロギ―を排除することがないように十分広義に、かつ具体的な行動の基礎となるのに十分明確に定義される必要がある。[6]>
    <この暴力概念はあまりにも寛大といわねばならない。受け入れることが極めて困難である社会秩序さえも、平和と両立しうることになりうる。それゆえ、暴力概念をより広く定義することがぜひとも必要となる。[7]>

     最初の引用で、ガルトゥングは暴力に対する普遍的な定義の必要性を明確に否定している[8]。それよりも重要であることは、「もっとも重要なイデオロギ―を排除しないこと(must be broad enough to include the most significant varieties)」や「具体的な行動の基礎となる(enough to serve as a basis for concrete action)」こととされている。また、2つめの引用では、特定の社会秩序を排除するために、その社会秩序が抵触するように暴力の概念を拡張することを必要としている。つまり、ガルトゥングにとって暴力(violence)の定義とは、いわゆる「目的ありき」のものだったのだ。事前に想定された「望ましくない(undesirable)」社会秩序――それは国家社会主義か、共産主義か、あるいは資本主義かもしれない――を排除し、それに抵抗するための具体的な運動の論理的根拠として活用できるように作られているということだ。いわゆる「革命理論」のひとつと言って差し支えがないだろう。ただ、かつての革命理論と異なるのは、歴史上最初の革命理論は著者の意図と関係なくそれをきっかけとして革命が勃発したのに対して、ガルトゥングや一部の扇動家たちによる革命理論は、著者の期待する革命を呼び起こすという明白な目的のためにつくられたということだ。この背景を踏まえた上で、ガルトゥングが定義した「暴力」の定義を注意深く見ていきたい。

    <ある人に対して影響力が行使された結果、彼が現実に肉体的、精神的に実現しえたものが、彼の持つ潜在的実現可能性を下まわった場合、そこには暴力が存在する。7>
    <en: As a point of departure, let us say that violence is present when human beings are being influenced so that their actual somatic and mental realizations are below their potential realizations.[9]>
     非常にわかりやすく、明確な定義である。また、これを以下では「潜在的実現可能性のルール」と呼びたい。ただし、問題は「潜在的実現可能性」の具体的な程度についてである。これに対してガルトゥングは、次の頁で明確な回答を与えている。

    <もし十八世紀に人が結核で死亡したとしても、これを暴力と見なすことは困難である。なぜならば、当時結核で死亡することは避けがたいことだったからである。しかしもし、世界中のあらゆる救済手段が備わっている今日、人が結核で死亡するならば、われわれの定義によれば、そこには暴力が存在する。[10]>
    <
    このように、潜在的実現可能性のレベルとは、所与の知識と手段でもって達成可能なレベルを意味する。もし知識と手段のいずれか、あるいは両者とも、ある集団または階級により独占されている場合、あるいはそれが別の目的に使われている場合……そのシステムには暴力が存在することになる。[11]>
     ある時点の世界でもっとも恵まれている、先進的な集団の可能性の水準を所与のものとし、その集団に属していればより大きな可能性(somatic and mental realizationsを実現できたはずの人物が居た場合、それは暴力とされるのだ。しかし、この定義によるところの可能性(potential)とは、つねに主観的なものとならざるをえない。肉体的、あるいは能力的な可能性であれば、より健康であることや、より賢明であることが誰にとっても望ましいということに合意しない人は珍しいだろう。しかし、精神的な潜在的実現可能性=”mental realizations”について普遍的な基準は存在しない。共通しているのは、それが各人にとっての主観的な「幸福」であるということだけだ。ガルトゥングはこう続ける。

    <たとえば、読み書きの能力はほとんどどこでも高く評価されるのに対して、キリスト教徒であることの価値は大いに議論の余地がある。それゆえ、もし識字率のレベルが潜在的実現可能性を下回る場合には暴力が問題になるであろうが、キリスト教への改宗率については同じことはいえない。11>

     以上ガルトゥングの定義する暴力、”violence”を仔細に検討してきたが、この定義の最大の問題点は、それが個人の「妬み」や「僻み」といった劣情を肯定して留まらないことだ。現代における「客観的・先験的」なものから「主観的・事後的」なものへの「暴力(violence)の概念的膨張」を、ガルトゥングの定義は強力に推進している。なぜなら、「○○があれば(なければ)、より大きな幸福が得られたのに」という「潜在的実現可能性」の発見は、つねに事後的に、そう発見する人自身の主観によって行われ、それを客観的に否定することは困難だからである。ゆえに、その劣情を「暴力への抵抗」として正当化し権威を与えてしまうと、必然的に人は想定しうる限り最高の潜在的実現可能性を夢想し、それが達成されなかった原因を他者に帰して「暴力だ」「搾取だ」「嫌がらせだ」などと叫ぶことになる。

     理解を促すため、少しだけ話をセクハラに戻そう。出社直後の些細な会話に対して、ある女子社員が「あの男があんな事を言ってこなければ、もっと気持ちよく働けたのに」という感想を持ったとしよう。そこにガルトゥングによる「潜在的実現可能性」の概念が加わると、「男が言ったあんなこと」は彼女の”潜在的に実現可能だった幸福感”を損害(violate)したものとして、社会から排除されるべき暴力(violence)のリストの、「セクハラ」という分類に加えられる。

     しかも、幸福感を損なう精神的な暴力は、その行為者の属性と切り離して考えることが出来ない。その言葉を掛けたのが女流漫画家によって描かれている少女漫画に現れるような「イケメン」ではなく、(恐らくは彼女にとって魅力的ではない)特定の男子社員であるという変数が確定した段階で事後的に「セクハラ」であると断定される。男子社員にとってみれば、他の男子社員が日常的に女子社員と話しているようなことが、彼が口にした時に限って「セクハラ」と糾弾されるという大変な理不尽を味わうことになる。フランスの強姦罪に対する懸念と同様に、潜在的実現可能性のル――ルは行為者側(他者に対して何かを働きかける側)に対して一方的に不利なのだ。

     ガルトゥングの理論は、第三世界で貧困や疫病に苦しむ人々にとって、先進国から様々な形の援助を得るにあたって大きな武器となった。「機会的平等」という言葉はしごく一般的な概念として受け入れられるようになり、この地上に生まれた誰もが、その時点で想定される最高の可能性を実現できるべきだというガルトゥングの議論は、多くの個人にとって空気のように当然のものとなり、「不平等」「格差」「差別」といった言葉は、それを発すると同時に「解決すべき問題」であるという意味合いを持つようになった。だが、ちょうど2015年現在生起している欧州の難民問題からもわかるように、人は常によりよい生活、より幸福な生活を求めてやまない生き物だ。ガルトゥングの議論を受け入れる限り、自らの潜在的実現可能性を獲得しようとして大移動を行なう難民たちを非難することはできない。

     ようするに、「潜在的実現可能性」なるものを想定し、それが実現された状態を普遍的な権利として考え、それを実現されない状態を暴力(violence)と定義し、それに反対し潜在的実現可能性を獲得する活動を「高く評価されるべき11」とするならば――あらゆる個人の欲望が肯定され、集団、階級同士の対立は永久に止むことがない。「隣のバラは赤い」ということわざが昔から言われているように、人は、いつも他者を羨み、満足することを知らない存在だからだ。もし本当に人々の幸福、満足を願うならば、最近発売された『置かれた場所で咲きなさい』という書籍の題名ごとく、現実とは今ここにあるものでしかないことを説き、「たられば」の議論は無意味であることや、欲望はむしろ罪であることを教えなければならない。しかし、ガルトゥングが撒いた種によって、今やはあらゆる欲望が実現されて当然のものと考えられ、ドイツでは「難民が来なければより幸福な生活を営めた集団」と「ドイツにいればより幸福な生活を営めた集団」の対立が深まっている。難民たちの写真を新聞で目撃するが、彼らは上等のコ―トやジャケットを着込んでおり、その手にはスマ―トフォンと、国境を超えて利用可能な通信サ―ビスを持っている。確かにドイツに行けば「より幸福な」生活を営めたかもしれないが、現状や、ドイツほど豊かではない欧州の国家で満足することが不可能な生活水準であるとは考えにくい。

     ある意味で、ガルトゥングはこの定義によって、意地悪な言い方ではあるが「”暴力”を解消するための”平和運動”という名の階級闘争を煽動する」という目的を達しつつあるのかもしれない。しかし、幸福が絶対的なもの(xドルの所得があれば誰もが幸福を得られる)ではなく相対的・主観的なものである以上、ただ満足するということによって、深刻な飢餓や疫病に苦しんでいるという一部の集団以外は幸福を得ることができるのだ。言い換えれば、ガルトゥングの定義する「暴力」と諸国民の「幸福」は、両立することが可能なのだ。

  4. 周縁的問題と幸福への展望

     また、ガルトゥングの定義する「潜在的実現可能性のル―ル」は、諸国民の長期的な努力や発明、研究といったイノベ―ションを否定する思想でもある。たとえば、現在中華人民共和国で問題になっている公害、5は一部での地域でWHO基準の50倍を越え[12]、多くの国民の健康が危機にひんしている。もし――おそらくは間違いなく――このPM2.5を解消、あるいは緩和する科学技術が我が国に存在するとすれば、これを独占し中国に提供しないことは、定義によればあからさまな暴力が存在するということになるだろう。だが、実際にはPM2.5の問題は中国の環境への影響を考慮しない経済活動に根本的な原因があるし、それを規制しない中国政府の不作為は問題にされねばならない。植民地主義の歴史を紐解けば、より多くの暴力を指摘できるだろう。しかしその中でも最も中国にとって好都合な選択肢は、我が国に無償の技術供与を要求することだ。自国の産業を抑制するという選択肢は、最も迅速に実行可能であるにも拘らず実行されることはない。

     もしこうした要求が正当性を持つとすれば、我が国は中国に遅滞なく環境技術を提供せねばならないし、それを要求する運動こそが平和運動と呼ばれ賞讃される。だが、日本の環境技術も、明治時代以来の悲惨な公害問題の歴史と反省に立ち、多くの科学者が努力を重ね、政府もそれを惜しみなく支援し、日本国民という集団の作為によって獲得されたものだ。もしそれを、そうすることでより高い可能性を実現できる人がいるからといってほぼ無償、少なくとも我が国が合意できないような価格で譲渡しなければならないとするならば、恐らく我が国にかぎらず、多くの集団・階級が努力をして何かを得るという活動、すなわちイノベ―ションを放棄するだろう。これは、70年間の時を経て、平等に埋没し勤勉さを忘れた共産主義諸国の人々と共通するものがある。国内のあらゆる個人が最も恵まれた状態にあること――すなわち「平等」を志向した共産主義と、世界のあらゆる集団や階級が想定できる中で最高の「潜在的実現可能性」を享受できることを理想とするガルトゥングの思想には、主体の単位こそ異なるものの、根本的に共通するところがある。それゆえに、その結果起こりうる副作用も、主体こそ異なれ同じような現象が指摘できるのだ。共産主義は実現のために最悪の暴力と犠牲を必要とし、結果的に失敗に終わった。ただ、論文が執筆された1969年の時点では、ソビエト連邦は英独と同程度の経済成長率を維持していたのだ。

  5.  本論では、現在我が国で見られる「暴力」と周縁的概念の無秩序な拡大――暴力の概念的膨張に対して、ガルトゥングの定義した「潜在的実現可能性のル―ル」がもたらした作用と、そのル―ルが孕む幾つかの問題について指摘した。同時に、潜在的実現可能性が担保されない――暴力が存在する状態と個人の幸福が両立するということも述べた。ただし、これらの批判は、もしかするとガルトゥングの既に予期したところなのかもしれない。論文の別の箇所で、ガルトゥングはこうも述べている。

    <基本的命題は、意図的かつ継続的妨害がないところでは、社会システムはこれら六つの全てのメカニズムを発展させる傾向がある……あるシステムのもとでは、ランクが一番下の行為主体は潜在的可能性を実現することができなくなるだけでなく、最低限の生活条件以下の状態に置かれる。[13]>
     この箇所で、ガルトゥングが「妨害」というネガティヴな用語を用いたことは一考の価値がある。暴力を「重要なイデオロギ―」に抵触しないように定義し、社会運動や革命に利用できるように利用することは、必ずしも人々を幸福にしないし、集団・階級間の対立を固定化させ、秩序を破壊する。しかし、そのデメリットを考慮してもなお、筆者が示した解決策――すなわち「足るを知る」ことによっては解決できない極度の貧困を救済し、その深刻化を防ぐ効用があるという立論は可能だ。たが、その真意は東京から8000km以上離れたノルウェ―、首都オスロに眠っているため、容易に知ることが出来ないのが残念だ。ガルトゥングの発見した潜在的実現可能性のル―ルに代わる、より優れた貧困救済へのアプロ―チ―集団、階級間の継続的な対立を生み出さない、より穏健なアプロ――チを発見することが、我々の課題なのかもしれない。そしてそれは、双方の合意のもとで後進国に経済的利益をもたらす排出権取引といった形で、既に萌芽しつつあるように思える。本論が問題にした個人の羨望による社会不和も、類似の方法で解決できないだろうか。あるいは、暴力の概念的膨張が深刻化する以前の時代に、そういったギブ・アンド・テイク、ないしはトレ―ドオフの関係性が存在したのではないだろうか。経済学的な観点を通じて、貧困救済への新しいアプロ―チを発見することを今後の課題としたい。

 

[1] おそらくそれこそが、『構造的暴力と平和』の先頭に「暴力・平和・平和研究」が配せられた理由だろう

[2] アクトワン通信 13.セクハラについて (n.d.): n. pag. 弁護士法人アクトワン法律事務所, 1 Mar. 2014. Web. 11 Nov. 2015. <http://www.act1-legal.jp/common/pdf/actone_press/actone_press_13.pdf>.

[3] "「ウチのセクハラ」、社内報で特集 広報課の女性コンビ企画 ." 朝日新聞 [Tokyo] 9 Dec. 1989: 7. Print.

[4] "NEWSポストセブン|月額590円「痴漢冤罪保険」に申込殺到 首都圏在住者に人気│." 月額590円「痴漢冤罪保険」に申込殺到 首都圏在住者に人気│NEWSポストセブン. 週刊ポスト, 11 Nov. 2015. Web. 11 Nov. 2015. <http://www.news-postseven.com/archives/20151111_362826.html>.

[5] Yamazaki, Fumio. 47 フランスのセクハラ法 (1994): 51. 29 Feb. 1992. Kokushikan Univ.

[6] Galtung, Johan, and Sakio Takayanagi. "暴力、平和、平和研究." 構造的暴力と平和. N.p.: n.p., n.d. 4. Print.

[7] Galtung, Johan, and Sakio Takayanagi. "暴力、平和、平和研究." 構造的暴力と平和. N.p.: n.p., n.d. 5. Print.

[8] ただし、次の段落で「一般的用法から外れたものになるかもしれないが、まったく主観的なものであってもならない」と述べている。

[9] Galtung, Johan. “Violence, Peace, and Peace Research”. Journal of Peace Research 6.3 (1969): 167–191. Web...

[10] Galtung, Johan, and Sakio Takayanagi. "暴力、平和、平和研究." 構造的暴力と平和. N.p.: n.p., n.d. 7. Print.

[11] Galtung, Johan, and Sakio Takayanagi. "暴力、平和、平和研究." 構造的暴力と平和. N.p.: n.p., n.d. 8. Print.

[12] "「まるで火事」 PM2.5濃度 中国東部でWHO基準の50倍 ." 「まるで火事」 PM2.5濃度 中国東部でWHO基準の50倍 . 大紀元, 13 Nov. 2015. Web. 13 Nov. 2015. <http://www.epochtimes.jp/2015/11/24765.html>.

[13] Galtung, Johan, and Sakio Takayanagi. "暴力、平和、平和研究." 構造的暴力と平和. N.p.: n.p., n.d. 27. Print.

大陸法と英米法、そして小さな政府と大きな政府について

タイトルのとおりだが、大陸法英米法、そして小さな政府と大きな政府の関係性について突如ひらめいた。

 

(専門ではないので全く自信がないが)説明すると、大陸法とはドイツを中心に発達した、民主的な議会によって制定された実定法にのみ効力を認め、裁判官の裁量を最小化する法体系である。議会の代表者たる行政府の権限が大きい。日本もこの流れを引いている。
いっぽうで英米法とは、いわゆる「コモン・ロー」に効力を認め、判例や「慣習(常識)」に法としての効力、強制力を認める法体系だ。議会が制定した条例も裁判所が「慣習」を根拠に破棄することがあり、司法の権限は強い。(しかし裁判官は選挙で選ばれるわけではないから、彼らは実に得体の知れない何者か、に拘束されているのである)

 

そしてこの度考えたのが、どうも大きな政府には大陸法が適していて、小さな政府には英米法が適しているのではないかということだ。

 

大きな政府、いわゆる福祉国家は、強烈な徴税とその再分配を特徴とする。スウェーデンでは、しがないアルバイトでも20%の所得税をとられるそうだ。政府の予算が大きい、ということはもちろん政府の裁量が大きい、ということでもある。

すると、誰に支出するか、ということに明確な規定がなく、ともすれば当局者の気まぐれで決定されるような制度では、たちまち独裁へと墜ちていってしまう。ソ連がいつの間にか独裁国家となったもの、各種資源の生産と供給を当局が一元的に管理する、というトップダウンの体制に人間的な堕落が相俟って成されたことだ。ゆえに、政府に代わって唯一権力を行使できる存在である司法も、もちろん事前に明かされた、明白な基準に基づいて行動することが求められる。政府の裁量が大きいほど不正は起こりやすいため、多発する行政訴訟に対して、いかに堕落した裁判官でも不正の判決が下せないように、法律上の解釈、裁量の余地を極小化する必要があるのだ。
(ちなみに、ソビエト連邦大陸法を採用していたようだ。一見矛盾するようだが、これは大前提である司法の独立を満たしていなかったからだろう)

 

いっぽうで、小さな政府は、発展は中央官僚の計画ではなく、ボトムアップ的な起業家精神と競争によって達成される。そのためには、制度の柔軟性はほぼ不可欠だ。中央計画であればその計画の中に制度の変更をも包含すればすむ問題であるが、ボトムアップ的な発展の過程では、政府が必要な制度の変更(規制緩和など)をア・プリオリに察知し、迅速に対処することはできない。よって、制度は「慣習」を根拠に柔軟に変更されていくことが望ましい。法の前提となる社会環境は絶えず変化しているのであり、議会の動きが遅いためにサイバー犯罪に対処できない、ドローンに対処できないといった大陸法のあり方では実質的な企業活動、市場の安全性を守ることが出来ない。むろん、司法が暴走した場合のリスクヘッジの意味も兼ねて、政府の役割も少ないほうが望ましい。

 

 

その点、小さい政府×英米法の英米は実に賢明だと思われる。そして、小さい政府×大陸法の日本の停滞も、これで説明がつくのではないか。
大きい政府、小さい政府の区分は抜きにして、じつは、経済成長率は英米法の国々の方が傾向的に高いという結果が出ている。(サンプルの少なさと偏りにも注意が必要だが)

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もしかして、英国病に罹患し、欧州有数の最貧国となっていた過去のイギリスの失敗も、「英米法×大きな政府」というディスオーダーに還元できるのではないか。

 

もし国家をゼロから作るのなら、初期には大きな政府と大陸法を採用し、需要が多様化してきた段階で小さな政府と英米法に切り替えるのが一番いいのではないだろうか。法制度は各国の文化とも非常に深く結びついているから変更は容易じゃないかもしれ…いや、日本であれだけ容易だったんだから簡単な事か?

 

法学専攻ではないが、ちょっと他分野に首を突っ込んでしまった。そろそろ寝る時間だ。

組織の論理―高知西高校から見る教師の行動原理

この記事は、2014年7月26日(土)に執筆したものを再掲載したものです。
わずかに文法上の修正を加えています。

久しぶりに、高校時代の話をしたい。
小生が卒業した高知西高校は、県下ではいちおう『進学校』として有名で、なるほど高知大学への合格者を2桁は出していた。
高知大学の偏差値が云々と云う理由で馬鹿にしてはいけない。本県を支配している県庁、銀行、新聞社・・・これらはみんな、高知大学出身者が占めているのだから、県内では高知大を出れば「知識階級」なのだ。そんな知識階級をいちおう毎年輩出する高校なので、偏差値にしてみれば50前後であっても「進学校」といわれている。

進学校」がなぜ善いか

進学校、というのを肯定的に解釈すれば、先生たちの面倒見が良く、勉強を熱心に指導してくれる、ということになるだろう。

「高知大に行く人が多い進学校だ」⇒「いい学校だ」
という単純な過程ではなく、

「高知大に行く人が多い進学校だ」⇒「先生が熱心に指導してくれるということだ」⇒「生徒への愛がある」⇒「いい学校だ」
という論理的な過程を経て「進学校」は賛美されるのである。大学への高い進学率は教師による指導の結果であり、熱心な指導は生徒への関心、愛を意味するのだ。
そう理解するなら、いわゆる進学校を親が薦めるのは当然である。小生の親もその一人で、結果当初志望していた近所の東高校を諦めて受験した。

しかし愛はなかった

こうして西高校に入学したが、上述の方法で期待される「愛」はほとんど見つけられなかった。
5月くらいの話である。
小生は中学生の頃から「(自称)進学校」にいたため、模試というものはもう何度も受験していた。
もちろん面白くないので国語以外は可能な限り寝て時間をつぶすのだが、高校生にもなるとそれが夜七時を過ぎるようなものに変化してゆき、幼少の頃から暇さえあれば喋ったり、何かの文字を拾ったりする習性が強かった小生はとてもこの無為と静寂に耐えられず、既にアレルギーを発症していた。
西高校三年次では毎月模試をやるとのことなので、4月のは受験したが、5月以降はもう無理ですと伝えると、放課後担任に呼び出され、受験してもらわないと困る、と言われた。
その理由は、「みんなそうすることになっているから」であった。

あくまで「組織」のため

ここで注目するべきなのは、その理由は「模試を受けた方が君のためだから」ではなく、「そういうことに決まっているから」―しかもそれはその教師が考えて決めたのではなく、お偉いさんがそう決めたから―であるということだ。
生徒個々人の将来、幸福といったものにはあまり関心が無く、「組織の論理をいかに適用し管理するか」、という官僚的、サラリーマン的な本音が、こういう例外的な事態の時に、真っ先に出てきてしまった。
また、センター試験を小生は高認試験の合格を根拠に個人申請したが、このときも同じ理由でかなりの反対に遭った。
少なくとも高知西高校については、教育者としての情熱に満ちていて、生徒に関心を持っている先生が沢山居て・・・ということはない。(もちろん一部居るが)
生徒の学力に熱心になるのはあくまで「上からそう命令されているから」であり、自発的、道徳的な動機は存在しない。

いつも思うのだが、こういう教師たちは大学で何を勉強してきたんだろう・・・

組織の論理と無責任の論理

全体主義、組織の論理は、あることが共同体の全員にとって例外なく善であるに違いない、という決めつけから発生する。
しかし、往々にして例外は発生する。実際、同窓の友人の一人は、学校の言うことを信じて勉強に心血を捧げたが、結局受験したすべての大学に(!)不合格となってしまった。結局浪人もせずに絶望の日々を送っている。
こういう場合、これまで散々生徒たちに命令してきた「学校」は、責任をとってくれるだろうか?
民間企業の世界では、執行部の判断ミスで業績が悪化した場合、株主に対して責任をとる形で辞任する、ということは珍しくない。
しかし、「我々の学習指導が間違っていたために、たくさんの生徒たちを不合格に追いやってしまいました。申し訳ない。」といって辞めていった教育委員会や校長を、小生は見たことがない。
合格すれば学校のおかげ、不合格なら自分のせい、という倒錯した論理を、疑う人も少ないのが現実だ。

自主・自決こそが必要

以上のことを鑑みれば、教師も責任さえ取らずに「教育」の美名を振り回ながら、考えもなしに全部の生徒を同じ方向に指導するようなことはしてはならない。
また、生徒の方も結局のところ誰も責任を取ってくれないということを自覚して、より主体的に行動を選択するべきではないだろうか。
そもそも、高校に行かなくてはまともに社会生活ができない社会自体が問題という思いがこみ上げてくるが、それはまた別の機会に考えたい。

卒業間際、国際基督教大学という、学力的にもそれなりの評価を得ている大学に合格したとき、小生は世話になった先生たちに報告をして回った。
小生のことを、部活動や英検や模擬裁判なんかで、誰に命令されるともなく世話を焼いてくれた先生たちは、おそらく小生の将来を祝して、讃辞を贈ってくれた。
しかし、まあ担任の体育教師は仕方がないとはいえ、学年主任の音楽教師に報告すると、「知っている」とにこやかに頷くのみなので、「ご感想は」と食い下がってみた。
彼は少しだけ考えてから、「それなら首都大学東京も受けておけばよかったのに。」と言った。
なるほど、偏差値的には同等以下である。でもそれは、首都大学も受かっておけば小生にとってよかったということではなく、学校として「国公立大学合格者数」が増えた方がよかった、という意味なのではなかろうか。
彼の本心を伺い知ることは出来ないが、その一言は今でも忘れられない高校教師への失望の象徴として、深く記憶に刻まれている。

 

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