転売的アプローチと発明的アプローチ

ベンチャーやらスタートアップやら色々うるさい時代における、富の源泉について考えている。

この懐かしい記事では、いわゆる付加価値はどのように定義可能かということについてちょっとだけ考え始めている。面積を最終商品の価値とした時の、レーダーチャートの軸を発見する作業だ。

しかし今日は、どのレーダーチャートの軸であれ、伸ばしていく作業(付加価値の創造)は抽象的な次元において皆同じなのか、または、例外となり得る業種業態が存在するのか……ということを書きながら考えたい。

仕入と転売

多くの産業は、仕入と転売によって成立している。メルカリやチケットキャンプで見られる転売屋と本質的に何も変わらないことを皆がやっている。

転売屋は資本がないので、自らの時間と労力を資本としてブックオフを駆け回り、Amazonやメルカリに出品することで利益を得る。しかしスーパーは資本があるので、朝、卸売市場で仕入れた野菜を消費者の自宅から近い位置まで運んで陳列し、利益を得る。場合によっては労働力を仕入れ、厨房で魚をスライスし、刺身として高値で転売する。

飲食店は、そこで販売されている適量の野菜や魚介を仕入れ、仕事帰りの時間帯で、なおかつビールを飲んだ状態の顧客にますます高値で販売する。むろん多少の熟練は必要だが、転売屋がよい商材が並ぶブックオフを嗅ぎつけ、Amazonで商品を出品するにあたって必要な熟練と、スーパーや居酒屋のアルバイトに期待される熟練が困難さにおいてそれほど異なるものとは信じがたい。しかし、必要とされる資本は大幅に異なる。スーパーの営業に必要な地代は少なくとも月あたり1,000千円を要するし、人件費も1,500千円は要するだろう。居酒屋であれば設備と内装だけで10,000千円の初期投資を要する場合も少なくない。

このような資金を銀行から有利に調達できる事業主は多くはないし、その勇気がある事業主はさらに少ないだろう。ところが、転売屋であれば自転車と綱絡*1接続さえあれば十分である。リスクを取らずに開業する方法としては、悪くない。

一般に転売屋に対して向けられる嫌悪感は、あまり理由のないものだと思われる。「ヤツらがブックオフ仕入れなければ俺が安く買えたのに」という主張は、スーパーが卸売市場で買い占めなければもっと安く刺身を食えたと主張するのとあまり変わらない。なるほど事実ではあるが、すると君は、毎朝卸売市場に足を運んでむこう一週間の食材を買い込み、欲しい本があれば安く見つかるまで地域の古書店をくまなく巡る生活を望むのだろうか。多くの人がそれを望んでいないからこそ、上で述べたような転売型のビジネスモデルが成立しているのである。

知的労働における転売

いわゆるホワイトカラーの職業や業種でも、一般的に企業は転売によって生計を立てている。有名な三菱地所は、岩崎弥太郎が大正時代、現在の価格に換算して50億円ほどで仕入れた丸の内界隈の土地に、絶えず「ビルヂング」を建てては賃貸することで収益を得ている。この場合、仕入集合は

input{ land(at marunouchi), building } であり、売上集合は output{ rooms/month } である。本質的には、レストランが食材を仕入れて調味料を加えて調理し、客に提供するのと何も変わらない。近年の人手不足で盛況の人材派遣業も、きわめて単純な転売モデルで機能している。input{ labor , management } に対して output{ fee/hrs } を出力する。MVNOなど他にも多数の例を挙げられるが、もはや十分であろう。

労働者と転売

賢明な読者は既にお気付きだろうが、人生そのものも実は転売である。上の表現を利用すれば、労働者の人生は

input{ experience, time, knowledge } : output{ wage/hrs }

の関数として表現できる。ただし国や地域、時代によっては、inputeducation backgroundclassが加わることがあり、それぞれの比重も個々のケースによって異なるだろう。

ここ数日話題をさらっている*2奨学金破産も、上の転売事業の失敗例に他ならない。ある労働者がある大学に行ったとき、得べかりしinputに対応するinput後の自身の市場価値outputと、その回収時期*3のタイミングを見誤って不相応な額の借金をしたからである。むろん大学の視点でみれば、巧みな広報戦略で労働者をうまく釣って、破産させてまでサービスを売りつけたことになる*4

非転売的な事業

それでは、経済活動のほとんど全ては転売であり、それぞれの経済主体にとって受容可能なリスクと調達可能な資本の規模によってその種類が異なるに過ぎないのだろうか。

ここで、いわゆる「発明」「イノベーション」といわれるものについて考えてみたい。世界には、非連続的*5な発見がある。最近であればブロックチェーン技術や、IPS細胞を挙げることができる。魔法使いと呼ばれる落合洋一教授を取り上げた放送番組を観た人も多いだろう。ベンチャー企業による革新的なサービスの提供も、同様に仕入と転売の関係にあるのだろうか。

例として、Googleの先進的な検索アルゴリズムについて検討してみよう。Googleは多数のエンジニアを雇傭し、開放的な「キャンパス」*6で開発に従事させる。この点までは、一般的なSI(システムインテグレーション:総合的システム開発)業者も同様である。なるべく優秀なエンジニアを雇傭し、顧客が要望する商品の開発に従事させる。使用するプログラミング言語も同一だろう。

筆者の想像が及ぶ限り、転売型アプローチと発明型アプローチの間に横たわる唯一の差異は、顧客の要請が先験的に存在するか否か、存在する場合は服従するか否かにあるようだ。SI業者は顧客に要件定義書を提出させ、商品を納品すれば、要件定義書の条件を満たしたことを理由に支払いを要求する。ところが、Googleの新しい検索エンジンについて要件定義ができる顧客など存在しない。顧客(ユーザー)が持っているのは、より適切な情報に素早くたどり着けるようにして欲しい、その方法は問わないという漠然とした願望だけだ。

Googleは、顧客の要求を忖度する。顧客はより便利な検索エンジンを求めているが、その対価として(広告を見るにせよ、現金を払うにせよ)どこまで支払可能だと考えているのか。検索の速度と精度は、どちらがどの程度優先されるべきだと考えているのか。専門的な情報と即効的な情報、画像と文字、PDFとdocのどちらを求めているのか?

この特徴は、多くの技術系ベンチャー企業について妥当するように思われる。フリルは高いUX(顧客体験)によってヤフオクがすでに占有していた市場に入り込み、よりリテラシーの低い層にも個人売買を普及させることに成功した。この新しい個人売買アプリについて、フリルの開発陣に要件定義書を送った顧客がいたとは思えない。フリルは、それを忖度したのである。

他の多くの産業が、顧客から注文書を受け取るより先には商品を作ろうとしないのに対して、上のベンチャー企業による発明型アプローチは対照的な関係に見える。スーパーマーケットは、見たこともない味付けの惣菜や、通常使われない具材を含んだ弁当を売りつけようとはしない。一方で*7一部のアグレッシブな事業主は、顧客が欲しいと思ったことがない商品を自ら作り出し、提供する。むろん、スマートウォッチのPebble社のように、一見大きな支持を集めながらも、商業的には失敗に終わった例も少なくない。しかし、顧客のニーズを忖度してプロダクトにする発明型アプローチは、Appleの成功の要因としても頻繁に挙げられていることである。また、IT系ベンチャーでなくても、このような発明型アプローチを取る事業主はみなベンチャーであると定義することもできるだろう。

発明は転売なのか

前項で説明したようなイノベーションや発明は、往々にして少人数のカリスマによって行われる。これらのカリスマにとって、発明は情報を仕入れて転売する活動なのだろうか。

イーロン・マスクやスティーブ・ジョブズ革新的アイデアaを思いつくまでの経験集合input{ experience }に含まれる要素が少しでも現実のそれと異なれば、革新的アイデアaの内容や発見される時期は多少ズレていたか、最悪の場合は彼らが死去するまでの間に発見されなかった可能性はある。しかし、転売屋がAmazonでの市価を見越してブックオフのレジに本を持ち込むのと同じように、彼らは革新的アイデアaの発見を予定して経験集合を組み立てていったのだろうか。

著名なジョブズ氏のスピーチによれば、この仮説は棄却されるべきだろう。

先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから将来何らかの形で点がつながると信じることだ。何かを信じ続けることだ。直感、運命、人生、カルマ、その他何でも。この手法が私を裏切ったことは一度もなく、そして私の人生に大きな違いをもたらした。

つまり、転売型アプローチが顧客の明示的な要求から帰納して生産要素を仕入れ、加工することで収益を得るのに対して、革新的な発明は顧客の明示されていない要求を忖度し、それに合致する商品が過去の経験集合から偶然に発見されることによって得られるものと考えられる

FacebookPayPalといった個々のサービスがどのように発見されたかについて筆者は全然詳しくないが、創業者たちの脳裏には、「このようなサービスが提供されれば、多くの顧客が列を成して利用するはずだ」と思えるに十分なサービスの青写真が存在し、それ故に莫大な資本を調達し、開発や世界展開に投じたものではないだろうか。ザッカーバーグがプログラミングに多少長けていたように、彼らはどのようにすれば青写真が現実になるのかと言うことを、少なくともある程度までは知っていた

著名なZapposのように、靴の通販サービスという青写真はあったものの、いきなり巨額の投資をするだけの自信はないので、最初は非常に田舎くさい方法でテストを行ったような例もある。日本の大手企業も、一部の地域に限って新しい味の商品を投入することがある。これは、巨額の設備投資を行う自信がないからに他ならない。Amazonも、自信がないのでAmazon GoやEchoのテストに興じている。広告業界で著名なホプキンスの著書でも、テストマーケティングの重要性は強調されている。

一方で、自信満々のセブンイレブンはドミネーション戦略を敢行することによって、他のコンビニチェーンには期待できないような効率化と顧客粘着性を実現している。

どうすればジョブズになれるだろうか?

それでは、我々はジョブズになる為に何ができるだろうか。

第一に、顧客の非明示的な要求を忖度するだけの想像力が必要だろう。新聞やテレビからは読み取ることができな部分があると仮定するなら、人脈が広い方が良いかもしれない。自分も顧客のひとりになるような商品を作りたいなら、みずから様々な趣味や仕事に従事する必要があるかも知れない

outputにあたる商品の作り方についても、ある程度の知識が必要だろう。具体的には、現在の技術水準において何が可能で、何が不可能かについて知っておく必要があるはずだ。静電式タッチパネルの存在に気付かずに、iPhoneを発明することは難しい。

要するに、需要側である顧客の不満や理想に絶えず想像を巡らし、同時に生産側である産業、技術の動向についても情報を収集して、何がどの程度のコストで可能であるかを知っておく必要があるだろう。両者の具体的な方法は多数考えられるが、それはあまりにも多岐に渡るのでここでは扱わない。ただし時間は有限であるから、そこ過程においても、効率性の実現は必要となるだろう。

 転売的アプローチの未来と発明的アプローチの必要性

本稿の趣旨は、転売的アプローチには未来がない、というありふれた攻撃を行うことには所在しない。電力や鉄道、通信に代表されるインフラ産業においては、初期投資のコストが個々の顧客の需要量に対して絶大であるから、集積された資本による転売的アプローチが今後も必要になるだろう。

いっぽうで、転売的アプローチによって運営される事業には必ず、より大きな資本による参入、独占といったリスクが伴う。もともと発明的アプローチによって切り拓かれた市場であっても、ひとたびそのビジネスモデルが機能するということが明らかになった以上、大手資本は参入の機会を模索する。その後の競争が、既に機能することが証明された要件定義済みの商品を開発し、莫大な広告費を投入した販促活動が繰り返される転売的なものになることは論を俟たない。

この場合、最初に市場を開拓した優秀なチームに残されているのは、自分たちこそがファーストペンギンであると自負する誇り高き創業陣と開発者、幾許のネームバリューと顧客を始めとする先行者利益だけである。それは十分である場合と十分でない場合があるので、フリルの場合は十分優れた商品を最初に作りながらも、資本の豊富なメルカリに敗北してしまった。

このような失敗を回避する方法の探究こそが、実際のところ筆者の関心なのである。ひとつは、アプリ開発のような綱絡関係の事業ではなく、飲食店や雑貨店といった地理的制約を伴う業種で発明的アプローチを導入することだろう。次に、綱絡関係であっても、大手資本にとって参入の価値がない小さな市場に集中することである。

ところが、多くの創業者にとって上のような選択は魅力的とはいえない。そこで考えられるのが、発明的アプローチを連続的に行って商品を非連続的に改善し続け、ちょうどインテルAMDの追いつくよりも先にますます高密度な半導体を開発するように、大手資本を置き去りにし続けることである。

それを可能にするためには、個人にとって発明的アプローチがどのようにして可能となり得るのかをより深く探究し、繰り返し再現する必要がある。そこで、上のような論考に及んだ。

*1:インターネット

*2:あからさまに朝日新聞社が「仕掛けている」ように見えるが

*3:10年後までポジティブ・キャッシュフローを維持できれば、破産せずに学費を回収できた可能性もあるため

*4:低賃金な進路が保障されている大学の広告を電車で目にするたびに、そう思う。広報担当者がばかでなければ、効果があるから毎年掲出しているのだろう

*5:昨日までの経験からは予見困難な

*6:立入自由な本社社屋

*7:西荻窪に存在する素晴らしい店を含む

人生経営のススメ(2)商社マンと比較してみる

前篇に引き続き、個人の収益性を時間軸で評価する話を続けたい。

企業会計の価値は、それを以て他社との比較に活用できるという点である。いうまでもなく、各社がてんでんばらばらの基準で自分勝手に会計評価をしていれば、投資や融資の判断に利用することができないので、企業会計の意味は一気に減じてしまうだろう。

そのため、時間収支の考え方も、自分のそれを計算することで自分の社会における成功度合いや、過去の自分と比較したときの前身度合いをある程度正確に推測できるような基準を持たなければ意味がない。

筆者と「一般的商社マン」を比較する

さっそく「一般的商社マン」なる人物像を想定することで、まったく異なる人生間の比較を試みてみたい。

一般的商社マンのモデルは、ここではこの記事で描写されているところの平日の時間の使い方と、シチズン社の調査による「肉食系男子*1」の休日の過ごし方から構成し、平日と休日の比率を5:2と想定した。

活字を読む時間、スポーツをする時間、自己啓発に要する時間、の3項目を「投資時間」として計上した。通勤時間は東洋経済の記事を参考に、1時間強と仮定した。

所得比較はどうする?

前篇のモデルでは、所得は第一期(最初に賃金が発生した年度)の時給を1倍としたときの倍率によって、所得増を時間増と換算して労働単価の上昇を考慮している。この方法は「自分がどれだけ頑張ったか」を評価するには大変有効だが、同世代の他社と比べて自分の立ち位置を知るためには役に立たない。

そこで、通常のサラリーマンの労働時間は法定の160時間+厚労省統計の月間10時間の残業であると仮定し、東京都の21歳正社員の平均年収が292万円であることから、時給換算で1,430円ということになるので、これを1倍と仮定して時間換算を試みることにしよう。

ちなみに一般的商社マンの収入は、ここでは伊藤忠商事のデータを利用することにした。720万円も貰えるらしいので、時給は3,530円にもなる。完敗である。

実際に作ってみた

さて、上の生活パターンに伊藤忠商事の所得データを組み合わせ、かつ筆者のデータもより精緻化した上で、両者の「時間損益計算書」を作成してみた。

まずはご覧いただきたい。

伊藤忠商事

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(筆者)

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伊藤忠商事の待遇の良さが際立つが、私の

・投資性向(余った時間を読書や勉強、スポーツに充てる割合)

・所得選好係数(自由時間を犠牲にしてでもお金を稼ごうとする傾向)

もなかなか物凄い数値になっている。

時間の使い方からは、やはりその人の価値観が推測できるようだ。

*1:商社マンは一般に肉食系と言われているため

「人生経営」のススメ(1)

個人の生計は、企業の経営とほとんど同視することができるし、むしろ、同視するべきである—そう表現すれば、多くの人は驚くだろうか。

しかし、小さいながら会社を経営して一年半になる今、両者の境界線は私にとってますます曖昧になってきている。今回から数回に分けて、「人生経営」——会社経営の原則を応用して人生の指針を決定する方法について考えていきたい。

 

企業のリソースは資産だが、個人の主なリソースは時間である

企業は、手持ちの資産*1をあるときは商品の仕入に、あるときは人件費に、あるときは研究開発に充てることによって、なるべく長い間にわたって、その企業が最大の利益を獲得することができるように戦略を立てる。

いっぽうで個人は*2、基本的には時間を企業に売却(労働)したり、あるいは自ら経営者となることで時間を(経営する事業体という媒介物を外形上経由してはいるものの)社会に直接売却することによって生計を立てる*3

個人が生計を立てるにあたって、いわばベーシックインカム的な形で、すべての個人に割り振られているのが「時間」である。個人が企業と同じように、自らの所得が長期に亘って最大化されることを希望するなら、この時間の割り振りが大変重要となる。

ここで、なぜ個人の生計を所得を「売上」として生活費その他を原価・経費として捉える資産軸のモデルではなく、時間軸で捉えようとするのかという疑問が提出されて然るべきだろう。

その理由は、企業にとっての「倒産」がその資産が払底し、債務を履行できなくなるからであるのに対して、個人は資産を払底させ、債務を履行できなくなろうとも、倒産した企業のように消滅に追い込まれることはないからである。

個人にとって「倒産」に相当する出来事があるとすれば、それは「死」によって主観を失うことであり、それは同時に「時間」の喪失でもある。この観点から、ここでは資産よりも時間に焦点を当てて、個人生計の利得最大化を論じている。

販管費をカットし、投資に振り向けよう

個人の時間の使い方を、労働によって収益を得るための合理化として捉えた場合、労働時間である8時間がいわば「仕入原価」に当たることは論を俟たないだろう。

「売上」にあたる賃金・報酬等が最大化されるに越したことはないが、多くの人が見落としがちなのは、むしろ「販管費」にあたる生活に係る諸々の雑用——洗濯、調理、そして通勤といった時間である。

また、「投資」および「所得変動」についても、基本的な捉え方を説明しておきたい。たとえば所得が20歳時と比較して25歳で2倍になった場合、25歳時点における1時間は、20歳時点における2時間と等価になったということができる。労働時間は8時間のままだろうが、この違いを評価しないことは相当でない。

そこでこの点は、本来であれば24時間を超えることがない時間所得を、家計初年度からの所得倍率によって調整することが望ましいだろう。上の例のような場合、会計初年度における8時間を余分に得ていることになるから、1日を32時間と捉えるのが望ましい。

また、例えば有益な本を読んだり、学校に行ったり、体を鍛えたりすることによって、人は将来の所得を増大させるために、現在の所得機会を手放すことがある。このような行動を、一般に「投資」と呼ぶことができるだろう。

これを単なる暇つぶしや快楽追求の時間と同視してしまっては、「学校も行かずにひたすらコンビニのバイトで日銭を稼ぎ、あとは引きこもる」ような生き方が最も合理的という結論が導かれてしまうが、実際の生涯所得の統計を参照すると、多くの場合、学歴の高い人は少なくとも学費分と6年間(高校・大学)の機会所得ぐらいは取り返していることがわかるので、適切とは言えない。

そこで、ここでは一先ず「営業外費用」として取り扱うことにした。

実際にやってみた:筆者10月期の時間収支

以上ごく簡単に説明してきたが、折角なので、ここで筆者の10月期の時間収支を見てみたい。百聞は一見にしかず、さっそくランダムに抽出した五日間*4を参照して私の時間収支をまとめてみた。

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(つづく)

*1:現金に換価できる資産

*2:「個人事業」となれば話は少し複雑になるが、ここでは措くとして

*3:空間を賃借・購入したり、他人の時間を購入して生活財を購入することができる

*4:10月26,23,22,17,14

「最悪の青春時代を送る七つの方法」

とても久しぶりに自分の時間が持てたので、少し過去を振り返って反省点をシェアしたい。以前の記事とは少し毛色が異なるが、ぜひ公衆に共有すべき、価値ある失敗集だと思っている。
題して、「最悪の青春時代を送る七つの方法」。ご笑覧あれ。

 

1.ツイッターをやる


ツイッターは人を不幸にする。

第一に、フォロワー数の増減を意識させるシステムのため、自分の投稿内容の如何によってこれが増減する体験を繰り返すうち、
あたかも特定の行動をとると電気ショックを与えられ、別の行動を取るとエサを与えられるラットのような心理状態に追い込まれてしまう。

第二に、先方の所属がプロフに書いてあって、しかも自分の氏名所属を知っているような塩梅のアカウントに遠回しに悪口を囁かれるなどすると、
翌日から周囲が全員敵であるかような錯覚に陥ってしまう。逆に言えば、人の悪口を共有するのが趣味の人にとって、これほど好都合のSNSはない。

そもそもソーシャルメディアを使って君の人生を実況中継したり、意思決定を詳細に説明したりする必要はまったくない。君にとって重要な人は、そんなことをしなくても君を見てくれている。

 

2.政治的な事柄に関わる


政治的なことに熟練している人、つまり教授や政治家、運動家の人々は、歳を重ねているほどに、人生を賭けてそのイデオロギーに奉仕している。若い人の場合は、これからの全生涯をそのイデオロギーに捧げるべく、日夜その党派の思想を深め合い、士気を高めている。

彼らにとってイデオロギーは全人類が服従するべき「正義」であり、転向は彼らの過去の体験や蓄積の一切を否定することを意味する。

だから、議論で勝利したところでその人の考えを変えることはできないし、もとより言い負かすことは相当難しい(最悪の場合、いかに客観的な証拠でも”黙殺”されることがある)。

政治的な人にとって人生の目的とはイデオロギー勝利であって、その達成のためなら手段を選ばない。非合法の手段を選択した者だって、戦後の日本に限っても星の数ほどいる。そんな人々にとって、君に再々嫌がらせをしたり、悪評を振りまいたり、秘密や過去を探り、暴露したりすることの何が難しいというのだろう?

 

3.お金をケチる


安く外国に行ける、面白い人と会える、今見なければ一生見られないものが見られる……そういった場合にお金を惜しむのも、非常に勿体ない話だ。原則として、借金をしてでも行った方がいい。

人生において重要なものは何でも、一秒でも早く手に入れた方がいい。なぜなら、人が得たものを応用できるのは、人生の残りの時間だけだからだ。
60、70歳になってから素晴らしい発見をしても、むしろ、それを以て人生を既に何うとも出来ないことをもどかしく思うだけだろう。そんな後悔を思えば、年利15%のリボ払いなどあまりにも格安といわなければならない。

(目安としては、カードで払う額の倍額を返済するハメになってもよい、と思えた場合のみ借金をすることを勧めたい) 

 

4.努力の方向性を誤る


勉強でも仕事でも、効果が無い方法はどんなに強度を高めても効果が無い。

課題がはかどらない、仕事が進まない、そういう場合は「努力」の不足よりも、「環境」と「方法」を疑った方がよい。

特に日本では、学校でも会社でも事務処理や手続き、手書きの書類といった類いの雑事が多い。集中力のツボを若いうちから抑えておけば、人に数倍する成果を出すことができる。

 

5.「見下し型」の人と交際する


世間には少なからず、若者を「所詮ガキだから」と見下してかかり、「俺はオトナだから」と線を引きたがるタイプの人がいる。感覚的には教授や大学院生、その他インテリ風の人に多い。両親がこのタイプであることも少なくない。

若者を「かわいがってくれる」、「育ててくれる」大人や先輩と明確に異なるのは、「見下し型」の大人は若者に何も与えようとはしない。専門性や華麗な経歴で圧倒し、優越感に浸ることだけが目的なのだ。

事実として若者の能力や資質には限界があるのだが、だからといってこの種の人に圧迫されて精神力を空費すると、遠からずこの種の人の期待通り、何も持っていない哀れな若者になってしまう。

 

6.肥満する、不潔、野蛮な格好をする


大学でディスカッションなるものをしてみると、ある人の発言が吟味されるか否かは、その人の属性や印象でおおかた決まっており、発言内容はさほど重要ではないことが分かる。

その第一歩が容姿である。特に日本は世界で最も肥満に厳しい国といわれているし、女性の化粧も世界一熱心であるという。

そんな中で表題のような格好をしていれば、どんな場面でも君の価値は割安に評価されるだろうし、同じ能力を示しても容姿で勝る他人にチャンスを奪われるだろう。

韓国では就活の一環で美容整形をするという。最近は女性登用の動きが拡がっているが、昭和の昔と比べて格段にサービス業化した日本の産業構造を考えれば至極当然のことだ。

女性より魅力的になれとは言わないが、せめて差別の対象にならない程度の水準は満たすようにしたい。

 

7.重要でないことを重要だと錯覚する


大学で真剣な議論をしたり、人間関係上のトラブルに巻き込まれたりすると、たちまちその事だけが非常な重大事件に思え、他のことが考えられなくなる場合がある。

しかしながら、未だ若い君に関することや、大学の内部のことである限り、殆どのことはまったく重要ではない。こういう場面で前後を忘れて直情径行に動くと、勢い余って中学生のような幼稚な行動をとってしまう場合が多い。

そんなとき、周りの人間は既に我に返っていて、君の幼稚な行動をつぶさに観察し、噂話やツイッターのネタとして消費する準備をしているところだ。

 

***


三鷹の大学を離れてちょうど一年ほどになるが、あれほど人生最高の時間を期待して、実際には人生最悪の時間を過ごした日々はなかった。

これからの若い人にはぜひ上のような失敗を回避し、自尊心と自負心とを大事にして、前へ前へと進んでもらいたい。

「正義」を手放すことは怒りを手放すこと

最近、一向にブログの更新が滞っている。

もともとは社会正義の存在を信仰して始めたブログなので、社会正義よりも結果、金銭を崇拝する生活に切り替われば更新が難しくなるのは当然のことかもしれない。気がついたら、はてなの契約更新さえも怠っているありさまで、独自ドメインを失っていた。

さて、今回は最近身近におこった事件から人間関係のよいノウハウを学んだので、ひとつ「シェア」してみようと思い、筆を執った。

「正義」の争奪戦

人間関係は、トラブルの発生によって用意にこじれ、解消してしまう。しかし、トラブルが起これば必ず人間関係の断絶に発展するというわけではない。最近の経験から、この分水嶺は「責任」の押し付け合いが解決するか否かにありそうだ、という心証を得た。

一つ例を挙げよう。

もう2年も前のことになるが、実家のある高知から東京に戻る高速バスの便で、小生は2列目の左の席に乗っていた。途中、徳島で別のバスに乗り換えなければならないと知らされ、眠い目をこすりながらも、2番めのバスの同じ席に腰掛け、しばらく経過した後のことだった。

消灯後なので車内は静まり返っており、暗かった。小生は多少窮屈に思いながらも眠りにつこうと、アイマスクを忘れたことを恨めしく思いながらも目を閉じようとしていた。

その時、突如、前の席の背もたれが勢いよく倒れ、眼前10cmの地点まで迫ってきた。たまりかねて、前に座っていた男の肩を叩き、

「ちょっと、おたく、倒し過ぎじゃないですか。最前列だからゆとりもあるでしょう。勘弁して下さいよ」

と苦情を申し述べた。すると男は、

「リクライニングがあるんだから、多少は倒しても良いと思いますがね」といいながら、半分ほど座席を戻してくれた。そこで軽く礼を述べ、一息つきながら睡眠の途に戻ろうとした。

しかし、15分もしないうちにバスは明るい駐車場に停車し、人の動く音が聞こえた。パーキングエリアである。こうなったら眠気も何もあったものじゃないから、小生も外へ出て小用を済ますことにした。

 

ところが、帰ってみると、いやに席が座りにくい。明らかに先程より狭い。バスは駐車場を離れていたが、慎重に慎重に考慮し、思い出し、やはり男がまた席を倒したのだと判断して、男の肩を叩いた。

しかし男は狸寝入りを決め込んだのか、反応がないので、この際だから男の席を激しく蹴り上げた。すると男は、

「一体何なんですか。リクライニングならさっき戻したでしょう」と述べたので、

「いや、私が休憩に行っている間にまた倒したでしょう。いい加減にしてもらえませんか」

「証拠でもあるんですか」

「席のポケットに入れている荷物が明らかにさっきよりも近くて、寝れたもんじゃないんですよ」

「それは頭上の棚に入れればよいでしょう」

「すでに別のものを入れているんです」

周囲をはばかりながらも、こういった問答が始まった。

男は、小生を無視すれば一晩中座席を蹴り上げられることになるから、交渉のテーブルから降りるわけにはいかなかった。

そのうち、男は小生に、こんな交渉を持ちかけてきた。

「リクライニングはあなたが納得するだけ戻してやるから、私がこっそりと席を倒したと主張したことは撤回して、改めて『席を戻してくれませんか』と頼みなさい。もちろん朝まで、絶対に席を戻すようなことはしない」

小生は少し困惑し、

「それはとにかく言えばいいということですか」

と問うたが、男は「そうだ」と短く返すのみだった。

男は暗闇に目玉を光らせて、わりあい真剣な顔でこちらを睨んでいる。小生は、ここは実利を取ろうと考え、

「わかりました。私の勘違いでした。席を戻してもらえませんか?」

と述べた。

すると男は、おもむろに前に向き直り、リクライニングを半分ほどひっこめた。翌朝になってもリクライニングはそのままで、男は新宿駅で黙々と降りていった。小生はカーテンに映る男の影を見守っていた。

 

アメリカ人は、「Lier」というレッテルをひどく嫌うという。嘘つきという意味だが、これは簡単に用いれば刃傷沙汰に発展しかねないほどの重大な中傷に使われる言葉らしい。この男も、小生が離れている間にこっそり席を倒したという卑怯さを免れることを、翌朝までリクライニングを広々と倒して快適に眠ることよりも増して選択した。

もちろん、これは匿名のやり取りである。判明しているのはお互い、高知に多少の縁があったというだけで、これは方言を使うことからわかるのである。だがそれ限りのことで、その後の社会生活に一切影響するものではないし、家族にだって知れることではない。

だから、男は、利害損得の感情とは関係なく、小生に一晩の快眠を差し出し、代償として「正義」を要求したのだと思う。

「不正義」を忍受する痛み

この男のことなどもう忘れて久しかったのだが、ひょんなことから、小生は男の気持ちを追体験することになった。

小生が大学を離れてすでに1年になるが、細細としたものとはいえ、一応の関係が続いている相手もあった。そんな友人のひとりから、ある日、哲学について語り合うサークルを立ち上げるから、公認を得るためにも名前を貸してほしいと依頼された。彼を、仮にSと呼ぼう。

小生は元来哲学に希望を持っていた人間だし、断る理由もないので快諾した。一応のミーティングというか会合を持ち、3回ほど色々なことを話し合った。それは損益と交渉のことで占められた生活の中で、限定的にではあるが、知的オアシスの役割を果たさないでもなかった。

しかし、肝心の公認を得た直後、小生にとっては大変な問題が発覚する。Sが大学当局に対して、サークルの説明書きと称してバルメン宣言日本国憲法を足して2で割ったような謎の文書を提出してしまったことがわかったのだ。

Sがこの文書を長い時間練っていたことは知っていたし、たまに喜々として読ませようとしたこともあった。しかし、小生を含めたサークルを代表するものとして色々社会経験を積んだ大学職員に提出されるものとは考えていなかったから、それは青天の霹靂であった。

権威や権力を持たないものが発する「宣言」など、なんの効力ももたない。そのうえ、知恵ある人の失笑を買うことになる。なぜなら、それは宣言者が、裸の王様のごとく、権威を持っているという妄想に浸っていることの証左に他ならないからだ。

小生はあわててこれの撤回を迫ったが、Sはあの手この手でそれを渋った。Sが会の全員にこの文書の裏書きを求めなかったことだけは明白であったから、他にどんな末節の事情でSに有利なことがあっても結論に変わりはないのだが、Sはその末節を執拗なまでに主張し、小生にその正当性を認めさせようとした。

だが、小生は今やサークルに居場所を求める必要もなかったので、優先順位はあまり高くなかったから、忙しいのにこのことを考えて悶々とするのは嫌であった。そこでこの件については連絡してくれないように頼んだが、Sは毎日、おそらく放課後の17時過ぎになると、かならずこの話をLINEで持ちかけて、1回でも返事すると永遠に付き合わされた。

そこで、小生はSをLINEでブロックした。今は1時間、2時間怠けることで、容易に数万数十万の金や信用を失う立場にある。そのためには、集中力を削ぐものはなんでも遠ざける必要があった。

その問題でしばらくSとは距離を置くことになり、サークルの次回会合の話も流れつつあった。しかしある日、Sは突如としてグループLINEで、彼が考えたらしいイベントの構想を披露し始める。それはメッセージ67件にも渡る長大なものであったから、斜め読みするのが精一杯であったが、会うことも少しはばかられる雰囲気で突然切り出されても反応に困る性質のものであることは明らかであった。

小生は上記の件も未解決であったから心に大きなしこりを感じていてが、件の文書のごとく謎の行動をサークルを代表して行われて、いつのまにかある義務を負わされていたり、ある一大イベントを行う人物の一人として衆人に知られているようなことになったら困るので、とりあえず内容はさておき、今度あったときに皆で話し合いましょうねというだけのコメントを残した。

そうすると、彼はどうも嬉々としたような様子で小生に感謝を述べ、いまだすごい企画を思いついた恍惚の感が抜けきれないような調子で返答をした。

小生にとって、Sの返答は不愉快そのものであった。痛々しい謎文書に代表されてしまったことについて未だ憤りを覚えており、その謝罪もまだないが、社交儀礼*1として返事をしたにすぎないのに、彼の調子からは、小生が感じているしこりもないかのようであった。加害者の余裕を感じさせられたし、再度の暴走の危険も近いと感じた。

そこで、3日ほど考えた後、小生はSにサークルの会長を辞めるように求めた。コミットメントの量からして他に見当たらなかったから、小生に譲るように求めた。

もちろん小生は今更サークルの会長がどうのといった、就活のネタにすらならないような肩書や権威に興味はない。六万円の印紙税がかかるだけ、合同会社代表のほうが重みがある。かといって、この時点の彼への感情からして、突然辞めると言って公認の下限人数を割らせるようなことはしたくなかった。とはいえ、言葉の表面から裏側の感情や要求を読み取る能力において彼は充分でないと感じたし、仕事の妨げになるからやめてくれと言っているのに毎日LINEで言いたいことを言ってくる人物が、対外的に暴走するのを止められる自信もなかった。

すると唯一の選択肢は、小生が一応代表権を譲り受け、会の名義で行動することを許可する権限を掌握するということになる。そうすれば、少なくとも意図しないところで自分を含むサークルが何かをすることになっていたり、SNSで変な政治的立場を取っていたりといったトラブルはなくなると思われた。

集中力とリソースを削がれるようなトラブルさえなければ、小生にとっても悪いサークルではなかったのだ。

 

しかし、Sは明確な返答を避け続け、なぜそのような話になるのだというような質問から始まって、その他小生の過去の言動に関連する中傷を書き立て始めた。これもチャットによるやり取りであったのだが、SEALDsのようなリベラルとS自身の立場の違いと言ったことを説明し始めたり、求めてもいない自著のレポートを見せようとしたり、もはや要領を得ないことは明らかであった。LINEのときと同様で、ようは自分が相手に見せたいコンテンツが先行しており、相手のニーズを見ようとしないのである。

小生はBrexitのごとく、SからCotrolを取り返せないのであれば、これ以上トラブル因子を抱えるわけにはいかないから、彼がいつまでも是か非かで答えないことに業を煮やして、否だとみなす、と書き残して会話を終えた。

 

しかし、ことは終わっていなかった。

この後、一切の連絡を謝絶したいと申し出ていたのに、Sはあれこれの方法で小生に連絡を取ろうと試み、色々とSの正義を主張し始めた。

それに対して、小生は最初、それを正面から否定する文句を、ごく短い文面にまとめて返答していた。裁判所が被告人の悪あがきを却下する調子で、意味が無いから検討しない、価値が無いから考慮しない、といった紋切り型の返事で話を切り上げようとした。

ところが、そうすればするほどに、Sの送ってくるメッセージは強い悪臭を放つものになりはじめた。順番は前後するが、とうとう小生は女の人気を落とすまいとして問題の短期解決を図ったことにされたし、もうそのメールを見たくないから詳細は控えさせてもらうが、最後の最後には乖離性人格障害か何かといった精神病の診断名まで与えられてしまった*2

とにかく小生の色々な言動にS独自の解釈が加えられ、なんでもトラウマで説明してしまうどこかの心理学のごとく、小生の多くの言動が暗色の動機に塗り尽くされてしまった。

もちろん、それは心あたりもない事実無根の塗り絵がほとんどであった。小生は忍耐強く、枝葉末節の反論は避け、それは君だけの想像であると短く返答したり、その主張自体を無視したりした。だが、そうすればするほどに、小生の心に復讐心というヘドロが溜まっていくのを感じた。

警察できびしい尋問を受けているうちに、被疑者はやってもいない犯罪をやったかのように思い込み、その様子を警官のストーリーよりも詳細に想像して、嘘の供述をしてしまうという。中学の時分、足利事件ルポルタージュ本で知ったことだ。

小生は、反論をしなかったがために、あたかもSの創作が事実であるということを小生が認めて、しかもそれはSだけでなく、小生以外のすべての人にとって自明のことになってしまったというような気がしたのである。その気持は刻々と強くなっていって、ついにはかつてのLINE問答にも増して集中力を削ぐまでに育っていった。

「正義」を手放すこと

そこで小生はすこし時間を取って、Sがなぜ延々とニーズのない自説をあらゆる方法で送りつけて来るのかということについて、検討することにした。その結果、Sも小生とおなじように、Sの認識や世界観に反する事実を小生から突きつけられていて、それでも学生は議論をするのが本分のようなものであるから、それらに対して、いちいち反論せずにはいられないのではないか、という仮説に到達した。

小生はSに何も期待できないという判断を固めていたから、特に具体的な塗り絵は突き突けていないものの、一貫してSの言説には今やなんの価値もなく、人間関係の能力もなければ、もはやその言葉には一滴の雫ほどの重みもないのだ、ということをSから連絡があるたびに言っていた。

Sは政治学者タイプで、Sの価値観に合致するものであれば、どんな文献でも熱心に読み解き、一端の学説を披瀝する人間である。Sにとって、言葉は主力商品といってもよいだろう。それを中心にSの言動自体の価値性を否定し続けた小生に対して、そうやって否定している小生を否定するのでもよいし、改めてS自身の正当性を主張するのでも良いから、とりあえず反論のメールを送って、Sの主張を小生を含む全世界が受け容れたかのような感覚を得たいのではないかと推察した。これは、反論を我慢したときとは正反対の開放的な感覚なのである。

そうこうしている間にも、S自身が会長であることに固執したのに、小生がサークルの会長になったという(今でも意図が不明な)デマをTwitterで1,200名前後のフォロワーに拡散するなど、新たなトラブルの火を今にも点火させようとしていた。

そこで、小生は今朝、今までSの価値性を否定したあらゆる連絡は撤回し、配慮が不足したことを謝罪するので、どうか平穏な感情生活を取り戻させてほしい旨の連絡をした。それと同時に、メールシステムの設定を変更して、知る限りのSのメールアドレスを受信拒否した。

だから、結局このメールが功を奏して、Sの復讐心を鎮めたかどうかは全くわからない。だが、小生の心理には多大な変化があった。あれほど毎時歯ぎしりをして、あのゴキブリをどう磨り潰してやろうかと考えていたのが、7割は減じて、穏やかさを取り戻すことができるようになったのだ。

Sは正義を主張することで、小生はSが正義を語る資格や能力自体を否定することで、結局は自分の側が正義であるということを、お互いに認めさせようと努力していた。どう話し合ってもこの正義を譲ることができなかったから、和解の機会もなかった。

だが、職業生活の必要から欲したものとはいえ、メールの上で正義を放棄するという降伏文書に調印したことは、自分は実際このリングから降りたのだということを心に追認させる。そうすると、先程まで重大極まりない問題であったSのこと全般が、非常に遠ざかった風景として感ぜられた。

この調子で、思考実験的に普段から憎んでいるクレーマーのことや、古い敵のこと、嫌味な親類のことなどを思い出しつつ、ただ「小生が悪いのだ」と念じてみると、不思議とそれらの問題が解決し、遠くに去っていくように思われた。

ふつう、正義を取り上げられると、それに応じた制裁が課せられることになる。

しかし、感情的なもつれについては、たとえ自分が悪い、負けたと認めたところで、特段賠償することもない。我々はついこの2つが不可分だと思ってしまうが、思えば、裁判所という制度によって人工的に結び付けられているに過ぎないかもしれない。

だから今は、いっけん二重思考のようであるが、「小生が悪いね、ごめんね、だからまあ仕方がないか」というようなことをふわふわ漠然と思っている。幼稚園から伴ってしかるべきだと教えられてきた謝罪という儀式さえ、改めてする必要を感じない。

少なくとも小生は、自分に甘いのだとおもう。責任が他人にあると思っているうちは、悔い改めろと思わずにいられないから、小生に意に沿わないくせにのうのうと生きている事自体が憎たらしくなるし、なんとか気持ちにでも金品にでも損害を与えて、その苦しむさまを鑑賞したいと思わずにもいられない。

たが、自分に責任があると思えば、自分のことであるから、まあ仕方がなかったねと許す気にもなるのだ。こうすることで、むしろやり場のない怒りに時間と気力を消耗することも減り、自分を高めることに時間を使えるようにもなるのだ。

説明が長くなってしまったが、怒りや憎しみの宛先は多くても、権力意のごとくならずして復讐の機会もなく、日々怒りをたぎらせている者は少なくないのではないかと感じるので、参考になればと思い記してみた。

*1:誤字ではない

*2:もちろんSは医学や心理学の専門ではない。正確な病名はメールを見たくないのでご容赦願いたい

続・商品価値を分解する

商業をやってみて気がついたのであるが、事業上購入するものや仕入する商品についても、(消費者ではないのに)消費税は徴収される。ただし、商品を再度販売する場合は購入者から消費税が徴収でき、赤字で販売する*1場合以外は徴収する消費税額の方が多くなることから、結局消費税を納めなかったのと同じ事になる。

つまり、商品を購入する時点で、意図しない場合も含めて最終消費者になってしまう可能性はあるわけであるから一応徴税して、結果的に売り抜けることができた場合だけ税を返還するという方式を採っているわけだ。よくできている。

ところで、日本を始めとする先進国*2では第三次産業が盛んになって久しいのだが、第三次産業ほど非生産的なものはない。第一次、第二次産業では原料と生産物はまったく違う態様になっており、原料の時点では人間の利用に供することができないものでも、生産物は高い利用価値を持っていることが珍しくない。

いっぽう、第三次産業における原料と生産物は、(冷静に観察すれば)まったく同じ態様であることが珍しくない。

卑近な例であるが、この場合、鉄人シェフが仕入れたパピコはグリコ社(第二次産業)が製造した生産物であり、鉄人シェフが商品に加えた付加価値は快適なレストランと「鉄人シェフが製造した」というイメージ、高価な皿に載っているという状態といくつかの添え物にすぎない。

もちろん、パピコの栄養価はまったく変化していないので、その意味において第三次産業は「何も生み出していない」といえるだろう。

しかし、価格でみればパピコと鉄人シェフのパピコでは数倍の開きがあるので、消費者の最終効用はこれらの利用価値に直接関係がない工夫によって大いに向上していることがわかる。

本稿では、これらの「利用価値に直接関係がない工夫」、すなわち「付加価値」の分解を試みたい。一見異なる項目に思われるものでも、同一の原因から発しているものは一つの項目として扱った。
なお、以下では筆者独自の用語が多用されるので十分ご注意願いたい。

  1. デザイン、装飾、美観
    同一の機能を持つ商品であっても、消費者の嗜好に合わせた装飾によって付加価値が向上する可能性がある。

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  2. 優越感、選民感情、有限性

    「特別な人しか持つことができない」という意味づけをされた商品は、どんな人でも欲しくなってしまう。どうでもいいDMにも「あなた様だけへのご案内」のようなことが書かれているのはこれが理由である。
    単に価格が高いということが消費者の選民感情を満たすこともあるので、この付加価値に訴えるのは供給者にとって非常に歓迎するべきスキームとなる。
    また、流通する数量に限りがある商品は、需要がある限り何度でも生産される商品に対して付加価値を持つ。ただし、これは生産者にとっても生産コストの上昇を招くリスクがあるうえ、限定品を入手できなかった他者の羨望の的になれなければ意味がないので、そもそも流通量が少ない、人気のない商品には応用できない。

  3. 簡便性、容易性、省時間性
    本来かかるはずであった手間がかからない、あるいは理解が容易である商品は、そうでない商品に対して優位性を持つ。地元の八百屋、宅配弁当、駅チカのマンション、カットフルーツや老人用スマフォの付加価値がこれにあたる。
  4. 軽量性、省スペース性、小分け販売
    同等の機能を有しながら、他の商品より軽量であったり、容積が少ないものは、消費者の自宅の容積や持ち歩けるバッグの重量に限界があることから、重くて大きい商品に対して優位性を持つ。

 

 

*1:これは商法に違反する

*2:個人的には全然そう思わないのだが

転売と生産、価値の付加および剥奪

「転売業」という言葉から多くの人が連想するのは、おそらく「せどり」や「ダフ屋」のような、いかにもゴキブリ業といった感じのビジネスかもしれない。

しかし、実際には世間におけるビジネスの大部分が「転売業」にすぎない。ソフトバンク光、NURO光はソフトバンクソニーがそれぞれ電電公社の回線を仕入れて転売しているものだし、MVNOも同様である。問屋がやっていることは商品の小分け販売であるし、人材派遣会社は労働力の転売をやっているし、大学だって知識の転売をしているわけである。教授は同じ知識を書籍でも講義でも提供し(たまに、あまりにも同じことしか言わないので気味が悪くなる)、大学は中抜きで肥え太る。

いわゆるOEM生産をやっている家電メーカーも、大部分は「転売」にすぎない。最近は、設計図さえもいくつかのテンプレートから選択できるようになっており、資金さえあれば誰でも自社ブランドの商品を販売できる体制が整っているようだ。少し前には、「VAIO Phone」がPanasonicの過去の商品とあまりにも類似しており、VAIOロゴのブランド力を使った転売にすぎないとして批判の的となった。しかし、ブランド物のバッグや時計なども、クオーツ式であれば大部分は日本製の汎用部品を使うしかないのであり、中国などから安く出ている無銘の時計と品質的には大差がない。これも、ブランド力を利用した転売の一種に他ならないのだ。

 

ただし実際には、上に述べたほどに単純な「転売」が行われることはほとんどない。なぜなら、単純転売は模倣が容易(仕入れ先と販路さえ判明すれば誰でも模倣できる)ことから、ビジネスとしての安定性・継続性がほとんどない。それゆえ、実際の転売は様々な付加価値を大なり小なり、伴っている。

  • 商標
  • アフターサービス
  • 利便性
  • ストーリー
  • デザイン

主に、これらの無形的な付加価値だけが「付加価値」と呼ばれる。有形の付加価値は、一般に「加工」と呼ばれることが多いし、ネジに対して木材を加工してタンスにする場合などは、元々の商品よりも加工材の方が分量が多いので、もはや「製造」と呼ばれてしまう。

加工ないしは製造された商品は、多かれ少なかれ、加工ないしは製造される前の商品よりも機能や効能が向上している。ねじと木材の有用性と、タンスの有用性を比較すれば明らかなことである。

一方で、「付加価値」が付与された商品と付与される以前の商品は、実質的な収益性において変わりがない。ここでいう収益性とは、顧客価値や消費者効用と区別するための概念であって、その商品が新たな富を生産する能力を意味している。多くの消費財の収益性はゼロである場合が多い。無銘のバッグであってもグッチのバッグであっても、基本的にはそれが富を生むことはない(投資ではなく消費である)。

だから、以下のような人は、同じものについてより多くの代金を支払うことになる(こうした人が日本の経済を支えているのである)

  • ブランドに魅力を感じる人
  • 商品の使い方がわからないひと
  • 面倒くさがりな人
  • 騙されやすい人、感動しやすい人
  • 外見で物事を判断する人

いっぽうで、商売の世界では、付加価値の一部を剥奪することで価格が上がるものがある。セールスマンの中には、顧客が興味を持っていること以外は何一つ話さない人がいる。これは、複雑なことを長時間聞き、理解することができない顧客にとって、自分が必要としている機能以外の商品説明はすべて雑音でしかないからである。また、工業製品の説明書も、価値が一つにまとまりすぎているので、コールセンターの仕事はおもに顧客の代わりに、説明書の索引を探すことにすぎない。情報を小分けすることに価値が生じている。

 

大事なのは、アダム・スミスが指摘しているように、国全体の富の総量は、人口のうち生産活動に従事する人々の割合できまるということである。とはいえ、付加価値がない状態で商品が購入されない市場においては、つねに多くの人口が商品に付加価値を与え、転売する業務に就かざるを得ない。国富の増大のためには、総合的なリテラシーの高い人口は欠かせないのだ。