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『青年社長』から学ぶ―ワタミはなぜ「ブラック企業」となり、しかも失敗したのか

Business

ワタミの凋落が話題に上って久しい。昨年は110億円を超える経常赤字をマークし、虎の子であった介護事業の売却を余儀なくされた。

今後はファミレス型の総合居酒屋を取りやめ、専門店への改装を進めていく方針ということだ。しかし最新の第一四半期決算でも5億円規模の赤字を計上している。前途は依然厳しいと言わざるを得ないだろう。

ところで、このワタミの創業者である渡邉美樹氏(現在は参議院議員)の立志伝的な小説が1999年に発売されている。高杉良『青年社長』である。

青年社長(上)<青年社長> (角川文庫)
 

 知人に紹介されて本書を通読した。本書に触発されて企業を志すものも多いと聞くが、やめたほうがいい。本書は「ブラック企業大賞」に始まる騒動、そしてワタミモデルの崩壊を10年前に予言している。目から鱗の「失敗の教科書」なのだ。

青年ワタミ社長の根性論経営

ワタミが失敗した第一の原因は、ワタミのビジネスモデルが簡単に模倣され、陳腐化しやすいものであったことだ。「和民」出店当時は斬新であったファミレス型の総合居酒屋というコンセプトは、直ちに白木屋をはじめ、他チェーンの模倣するところとなった。また、既に豊富なメニューを用意している他業種が酒類を提供することで和民の競合として立ち現れることにもなった。

しかし、そもそも渡邊社長はなぜこのような被模倣性が高い業態を選択したのか?その原因は、和民が最初に手がけた「つぼ八」チェーンのフランチャイズにおける成功体験にある。フランチャイズは、いうまでもなく経営の自由度が極端に低い開業形態だ。商品の仕入れ先からアルバイトの教育、メニューに至るまで、フランチャイズ契約に則ってマニュアル通りに行わなければいけない。だから、フランチャイズ店の成長は「立地」や「努力」によって大いに左右される。立地は容易に変えるというわけにはいかないから、ワタミは後者を選び、当時の居酒屋業界で頭一つ飛び抜けた成功を収めた。

「渡邊は、「つぼ八・高円寺北口店」でサービスの差別化に心を砕いた。

「まずお店をきれいにしよう。テーブルクロスも、必ず取り替えること。お客様の靴の出し入れは我々がやろう。おしぼりは、膝をついて、開いてお渡しするんだ。しかも途中で二回目を出す。極端に聞こえるかもしれないが、お客様に対しては奴隷になったつもりで接するぐらいの気持ちの持ち方がいいと思う」

 渡邊は、横浜、関内の「遊乱船」で経験した接客のあり方を、「つぼ八」に持ち込み、居酒屋のイメージを一新した。しかも社長兼店長が率先して「奴隷」になるのだから、アルバイトの学生たちも従わざるを得ない・・・サービスの差別化は集客に直結する・・・わずか半年で千五百万円に売上げが倍増、利益は・・・十倍も増加した。

「奴隷」という言葉に反発したオーナーや店長もいたが、「要は気持ちの問題です。接客態度に謙虚さが求められるのは当然でしょう。それを強い言葉で表現したに過ぎません」と渡邊は反論した。
「渡美商事は特別変わったことをしているわけではないのです。サービスの差別化は飲食業に限らず、サービス業全てに求められていることです・・・ありふれたことの積み重ねにすぎません」

渡邊自身が「気持ちの問題」と表現したことが全てを物語っている。気持ちの問題であるからこそ、「つぼ八」から引き継いだアルバイトを少し再教育するだけでサービスの向上を実現できた。経済学的な言い方をするなら、生産要素を増やさずに生産量を増やすことができたのだ。渡邊は、自身のリーダシップによって労働者の賃金を上げずに努力をさせるという究極のフリーランチを掘り当てた。

ところが、その発見も数年もすれば、日本全国の飲食店に知れ渡っていくことは避けがたい。外国人の流入、主婦パートの増加にともなって労働市場が緩和したこともあり、このフリーランチはどの飲食店でも発掘されるに至った。最近では、外国人労働者が働く居酒屋でもおしぼりを開いて渡してくる。こうなってしまえば、和民のサービス水準はまったく「差別化」されていない「あたりまえ」のものになってしまう。

企業はしばしば、「価格競争」という悪手に陥りがちである。価格競争は本質的にクラウゼヴィッツがいうところの「相互作用」であり、こちらが用量を増やせば相手も同じく用量を増やし、どちらかが限界を迎えるまでそれが繰り返される。ワタミはサービスの質を向上させることで他の居酒屋から顧客を奪い、いったんは大成功を収めた。しかし、他店が指をくわえて見ているはずがない。「気持ちの問題」でしかないからこそ、我も我もとサービスを向上させ、顧客を奪い返しに来るに決まっているのだ。

いったんはワタミに破れた居酒屋たちが復讐戦に打って出たとき、ワタミはそれでも顧客を引き留める術を何一つ持っていなかったのだ。

低い企画力とイエスマン役員

ワタミも、単に「根性でサービスを向上させる」という模倣が容易な方法ではなく、既存の居酒屋の設備や従業員、店舗をそのまま転用することが困難な新規性の高い業態を開発していれば、相互作用的な競争に陥らずに済んだはずだ。

しかし、ワタミにはそれができなかった。時間も資金も土地もあったが、人材がいなかったのだ。

渡邊社長は、明治大学の出身である。学生時代からリーダシップの高さで知られ、学生会的な組織を率い、児童養護施設向けのチャリティーコンサートを大成功させる。その頃から渡邊に従い、起業の夢を共有していた同期が創業期の役員となった。正社員は「つぼ八」でアルバイトをしていた13名の学生・フリーターである。

この時点で、渡邊社長以下の役員・正社員に新規性の高いビジネスモデルの発案を期待するのは困難と言うべきだろう。役員は大学時代から渡邊の部下であったわけだし、アルバイトは本質的に「言われたことをやる」のが仕事だ。根本的に従属的な立場であり、それに満足していた者だけが役員と正社員を占めている。

では渡邊社長本人はどうか。もちろん、「つぼ八」のフランチャイジーに甘んじることをよしとはしておらず、独自業態のお好み焼き屋「唐変木」を開業している。後にはこれを発展させ、宅配専門の「KEI太」を展開。しかし、結論から言えばこれらは両者ともに失敗し、ほどなくして閉店を余儀なくされている。

「オシャレ志向のお好み焼き店」である唐変木

「講演旅行の途中、大阪で食べたお好み焼きに舌鼓を打った渡邊は、思わず膝を打って「これだ!」とひとりごちていた。渡邊は、帰京後、さっそく「関西風のお好み焼きハウスを渡美で出店しよう」と提案した。

「関東ではお好み焼きはチェーン化されていないが、関西ではチェーンがいくつもあって、いずれも繁盛している。関東ではお好み焼きが日常食になっていないが、潜在需要はあると思うんだ。渡美独自のブランドを持つためにも研究してみる価値はあるんじゃないか」

唐変木の今後の展開が楽しみですねぇ。居酒屋みたいに高収益は望めないでしょうけど、なんといってもワタミ独自のブランドですから」

「黒澤は、大阪と広島で苦労したからなぁ。唐変木に対する思い入れの深さは俺以上だろう」

「そんなことはありませんよ。私は社長命令に従ったまでです」

として開業したが、数年で

「恥を晒すことになりますけど、東急百貨店の吉祥寺店に・・・出店したのですが、調子が良かったのはほんの二,三箇月に過ぎませんでした。近くのスーパーが持ち帰りの安いお好み焼きを売り始めたからです。結局、今月末で撤退することになりました・・・屈辱的敗北ですよ」*1

「下北は立地条件を間違えました。リーダーとして不明を恥じなければなりません。可及的速やかに撤退する方向で考えたい・・・」

 として不調になり、

唐変木の撤退を決断せざるを得ない。その理由は、業態と時代のミスマッチだ。雰囲気、サービス面で、お好み焼きに付加価値を付け、高単価で売るのが「唐変木」だった。そのためのコンセプトは「おしゃれ」であり、「美味しいお好み焼き」であった。しかし、「おしゃれ」が高単価のイメージなのに対して、「お好み焼き」は低価格、庶民的というイメージを持つ商品である。いわばコンセプト内にミスマッチがあり、ベーシックな業態ではなかった。

といった理由で撤退されることになる。また、唐変木から

とりあえず直営店でデリバリーサービスを始めるが、現代の個食化傾向にマッチしているので、KEI太に対するニーズは増大すると予想されます。庶民の味、お好み焼きの宅配は必ず成功する・・・」

として派生した宅配お好み焼き店の「KEI太も、

平成6年に入ってKEI太の業績はいっそう深刻化し、渡邊は撤退の経営決断を迫られることになる。

「KEI太は撤退せざるを得ないと思う。もはや救いようがないところまで来ていることを、四日間のデリバリー経験で思い知らされたよ。お好み焼きは、わいわい言いながら、お店で食べるものなんだろうねぇ。それと、関東では高級な食べ物のイメージが強いようだ。唐変木も低落傾向にあることを考えると、関東と関西の文化の違いに行き着くのだろうか」

「・・・KEI太は雰囲気、サービスというプラスアルファなき業態なるが故に、全くの商品勝負で、ワタミらしさの「こころ」を表現することができなかった。商品だけが価格の決定要因である宅配は、ワタミの文化とマッチしなかったということになる。ミスマッチの宅配がうまくいくわけがない。撤退の決断は間違っていなかったと思うんだ」

などの理由で撤退に至る。

しかしながら、これらの記述に少しばかり注意を払うと、たちまち複数の矛盾に突き当たる。「関東では高級なイメージが強い」お好み焼きが、なぜ他方では『「お好み焼き」は低価格、庶民的というイメージを持つ商品』とされているのだろう。また、「お好み焼きは、わいわい言いながら、お店で食べるもの」であるならば、どうして東急百貨店では近隣のスーパーが安価なお好み焼きを販売したことによって集客が落ち込んだのだろう?

経営判断がおよそ合理的ではないのだ。そのうえ、初期の役員・社員が上述の理由によってイエスマンによって占められやすい構造であるため、渡邊社長の論理の弱さを誰も指摘できなかったということだろう。

低いコンプライアンス意識と上辺だけの「理念」

よく知られていることであるが、ワタミは「理念経営」の先駆け的な存在である。本書によれば、ワタミの理念は「一人でも多くのお客様に、あらゆる出会いとふれあいの場と、安らぎの空間を提供すること」である。また、「会社は、社員が幸福になるためにある」とも謳っている。

しかしながら、この『青年社長』にはワタミの低いコンプライアンス意識が恥ずかしげもなく描かれている。

午後四時に出店して準備を始めるアルバイトのタイムカードの打刻を五時にして、時給(九百五十円)の一時間分を短縮するせこいことを考え出したのは、笠井である。 「〝KEI太〟はいま現在、

赤字なんだ。きみたちも協力してくれよな。そのかわり、黒字になったら、その分必ず挽回させてもらうからな」

・・・否とも言えないが、挽回はできなかったのだから、結果的にはアルバイトを騙したことになる。

 アルバイトの立場からしてみれば、毎日一時間もタダ働きをさせられ、そのうえ約束された補償もなく、解雇までされるのだから泣きっ面に蜂である。「会社は社員が幸福になるためにある」とは、いったい何だったのか。

また、創業期からの役員である金子、黒澤の両名は「実力主義というワタミの社風をより確かなものにするために、ワタミの「●●ができる人が役員」という人事の文化を守るために退任するのである」として課長に降格する。ところが、物語終盤で商品開発課長の山口なる人物が退職する場面があるのだが、ここで唐突に「山口は縁故採用だった」と明かされる。実力主義とは、何だったのか。

更にいえば、宅配お好み焼き店創業時の「現代の個食化傾向にマッチしている」というビジョンも、理念である「一人でも多くのお客様に、あらゆる出会いとふれあいの場と、安らぎの空間を提供すること」と相反している。本来であれば個食化に抵抗し、会食の良さを提案すべき立場にあるべきだ。営利企業としては当然の行動ではあるが、やはり儲かりさえすればよいのであって、理念などはタテマエ以上のものではないのだ。

失敗の本質

結局のところ、ワタミが手がけて成功したのは「つぼ八」のチェーンだけであった。渡邊社長は、非常なカリスマ性を備えた実行力のある人物である。それゆえ、「つぼ八」のように完成された実績あるビジネスモデルを忠実に実行すれば、強みを最大限に発揮して大きな成功を収めることができる。

一方で、まったく新しいビジネスモデルを発案する作業にはとことん弱い。そもそも論理的ではないボスを誰も批判できないからだ。ちなみに、ワタミを「裏切った」とされている元役員の金子宏志氏は、現在も「かもんフードサービス」の経営者として第一線で頑張っている。ワタミが今更になって進めている個店化(飽きられやすいチェーン店からの脱却)を当初から選択しており、現在では関東一円に35の店舗を運営している。ワタミフランチャイジーであった「つぼ八」は、創業社長が追放されたにも関わらず現在も320の店舗を展開し堅調な経営を続けている。個人ではなく、ビジネスモデルそのものが優れていたのだろう。

起業家というと、商社マンのようにひたすら行動力があり、実行、実践を重んじるタイプの人間が想起されがちだ。しかし、思慮を欠いた実践は失敗を導き、時にはそれが致命的なダメージとなる。

*1:ちなみに、現在吉祥寺駅付近ではヨドバシカメラの7階に大阪風のお好み焼き店がある。すぐ近くの西友やライフでも惣菜のお好み焼きは売られているが、撤退の兆候はない

「可能性のポリティクス」の社会活動論

Philosophy Politics Labor

 

 Abstract

 人は自己保存の欲求に従って行動する主体であり、ある財や行為が自らの生存可能性に与える影響を限定合理的に評価して絶えず行動を最適化している。生存可能性は効用そのものであり、それゆえ、個人が生存可能性の一部分を犠牲にして「支払い」を行った場合、それと等価以上の「受け取り」を期待する。
食糧や消費財の入手が短期的な生存可能性を保証するのに対して、承認欲求や尊敬欲求などの社会的欲求の充足は長期的な生存可能性を感じさせる。そのため、感謝されている、必要とされているといった感覚は個人に効用を与える。それゆえ、労働や各種の活動に「社会的意義」を想定することで賃金とそれを消費・貯蓄することによる効用以外に「物語所得」が与えられている場合が少なくない。これは賃金が発生せず、また必要ともしないボランティア、NPO等の活動においては従事者にとってほぼ唯一の報酬となっている。
ところが、「社会的意義」とはある行為が他者の効用にもたらす影響を、恣意的な時間・範囲・不確実性を前提に切り取ったものでしかない。実際には未来における他者の効用についてアプリオリ的に正確な期待を得ることは不可能であるため、「社会的意義」は常に「偽りの物語」であり、欺瞞である。これを「可能性のポリティクス」と称する。
一方で、あらゆる可能性のポリティクスを否定した地平には、最低限の生活のための労働以外の全ての活動の対価が不可知、すなわちゼロであると想定され、それゆえにそれらの活動がいっさい為されないアパシー状態が現出することを認めざるを得ないだろう。知的に誠実であることは、かえって我々から生の意義を奪い去るのかもしれない。

 

人は、自らの意思によるあらゆる支払いに対して、それに応じた受け取りを要求する。支払いとは、所有する物資や時間、労力、思惟など、本来であれば生存可能性をより高めるために用いることができたあらゆる資源のことである。一方で受け取りは賃金や物資、言語、感情的なジェスチャーなどあらゆる形態をとりうるが、ある行為における支払いと受け取りの総量は、それらによって感じられる生存可能性という意味において、いつも等価になっているし、人はそれを追求している。

これが等価にならない場合、人は第一には受け取りの量を増やし、あるいは支払いを減らそうとする。賃金が予定よりも低いので仕事を手抜きする場合とか、おつかいに予定よりも手間が掛かったので追加のお駄賃を要求する場合などがこれにあたる。第二には、既に確定した取引について、解釈を変更することを試みる。いわゆる認知のバイアスがこれにあたる。詐欺的な商品を購入し、返金ができないと考えられるとき、人はしばしば「勉強料」という考え方を導入し、詐欺的な商品の他に「勉強」と名付けられた経験を支払った代金によって購入したのだと自らに言い聞かせる。飲酒やギャンブルに金を使いすぎ、その月の家賃にも困る程度にまで至ったとき、若者は「この程度のはした金なら、少し働けばすぐに取り返せるさ」と吐き捨てる。この行動は、すでに消費してしまった金銭が自らの生存可能性に与える影響を事後的に再評価し、切り下げているものと見ることができる。いずれの場合にも、取引が行われた時点で交換される資源の量は確定しており、とくに金銭や物資といった形のあるものについては動かしようがない。しかし、事後的に記憶を書き換えたり、取引された資源の評価を操作することによって、人はつねに過去の取引が等価以上の有利な交換であったことを担保しようとする。

感情的な対価による社会生活

そのため、多くの人々の労働や社会活動についても、上記のような方法で絶えず感情的な最適化が行われており、ある行為のために実際に費やされた時間や労力、物資や情動の量が多ければ多いほど、人はその対価に多くの資源を得たことを信じようとする。

受け取り=対価として得られる資源は、支払いの場合と同様、形を持たない観念的なものによって充てることができる。その比率があまりにも高いと「霞を食って」生きることになるが、貯蓄や年金、扶養によってベーシック・インカム的なものが得られる状況においては、受け取りの全部分が他者からの尊敬、感謝といった情緒的なものであることが抵抗なく受け入れられる。いわゆる「やりがい搾取」の状況がこれに近い。

生活に必要な最低の賃金が保証されれば、その残余の部分は貯蓄または奢侈品の消費に充てられ、それらは個人の生存可能性を高めることで効用をもたらす。つまり、賃金以外の方法で直接的に生存可能性を予感させることができれば、それは賃金の余剰部分を増やしたときと同じ効果をもたらす。だから、学生によるNPOインターンシップの大部分は、これらの「やりがい」を与えることによって無償で労働力を確保している。ただし、こうした組織に無償の労働を提供する人々のほうも、同じ時間で賃金が得られる仕事を行い、それで得た賃金で何かを購入したり貯蓄したりした場合の効用よりも「やりがい」から与えられる効用のほうが大きいと考えられるから無償で活動に従事しているにすぎないのであって、それを「搾取」と呼ぶことの妥当性については議論の余地があるだろう。

そのため、必要最低限以上の賃金が支払われるあらゆる職業や、賃金を得る必要がない人々が行う活動については、つねに賃金に対して補完的な役割を担い、感情的な効用を与える「フリンジ・ベネフィット(非賃金所得)」が用意されている。使用者にとっては非賃金所得で労賃を置き換えることはつねに有利な行動となるため、プロパガンダ的な形で「社会的意義」が与えられ、それを受け入れるように求められる場合が少なくない。例えばブラック企業として名をはせた飲食店のワタミでは、「働く目的は賃金ではなく、お客様からの「ありがとう」だ」というやりがいが強制されていた。それ以外の多くの職場でも、その企業が社会にもたらすポジティブな影響が強調されている場合が少なくない。本稿では、これを「物語所得」と称したい*1

このように、使用者やNPOの主唱者等の広範な利益から、労働や社会活動の「社会的意義」はますます強調され、賃金削減の一つの方法として力を持つようになっている。労働者や活動の従事者が受け取る総合的な対価のうちこれらの物語所得が占める割合は、主婦や学生が行うボランティア活動においては100%であり、所得を必要とする職業においては、本来であれば高い賃金を得られたであろう人々が低賃金で従事している場合であればあるほどその比率は高い。神学系の大学を卒業した人物が神父や牧師になる場合、本来であれば初年度で年300万円、生涯では2億円以上得られたであろう大卒者としての賃金を完全に手放し、多くて年200万円程度にすぎない献金収入を生涯にわたって受け入れる必要が生じる。その必然的な帰結として、教会はその社会的な意義や貢献を過剰に強調する。

社会生活と可能性のポリティクス

しかし、ある行為の「社会的意義」を正確に測定し、ましてやそれを事前に予測することは困難であることが多い。「人間万事塞翁が馬」ということわざが示しているように、短期的には災難であったことが長期的には利益をもたらしたり、誰かにとって利益であったことが、それ以外の誰かにとっての不利益である場合が多い。誰にも不利益を与えずに誰かの利益を増やすことを「パレート改善」と呼ぶが、長期的な視点で考えた場合や波及効果を考えた場合、実際の社会生活においてパレート改善を実現することは非常に困難であるし、ある行為が結果としてパレート改善であったか否かは、神の視点によってしか把握できないことに属する。

ところが、使用者は「物語所得」を用意せずにはおかない。パレート改善が合理的に実行できないという事実を謙虚に受け入れ、「われわれの活動が社会に与える影響は予測できませんし、事後的に評価することもできません」と表明してしまっては、誰一人として無償では働こうとしないからだ。それに、個々の従事者や労働者にとっても、所与の賃金を受け取った上で自主的に「物語所得」を生成することができれば、労働時間や強度を少しも増やさずに効用を幾分か増やすことができる。そこで、人は以下のベクトルを物語所得を最大化する地点に調整し、そこに留め置こうと試みることによって、「偽りの」物語所得を作り出そうとする。

  1. 時間的な予測(長期⇔短期)
  2. 範囲的な予測
  3. 不確実性の予測

パン屋で働く人々は、ただパンを販売して所得を得るのみならず、彼らがパンを販売していることが「人々を幸せにしている」という想像を消費することで、追加の非賃金所得を獲得したいと考えている。そのため、彼らは彼らのパンを食することによって笑顔になる家族の姿を想像する。しかし、ある時点ではパンを食べることによって笑顔であった消費者も、そのパンによって肥満に陥るかもしれないし、ある人はそのパンによって糖尿病発症の閾値を超え、長期の入院を余儀なくされるかもしれない(時間的な予測の調整)。しかも、彼がパンを販売することによって、やむを得ない事情で彼よりもパン職人としての腕前が劣っていた誰かが職を失い、家族とともに路頭に迷うかもしれない(範囲的な予測)。そのうえ、パンを誤って食べた赤児がそれを喉に詰まらせ、窒息死するかもしれない(不確実性の予測)。これらのパターンが発生する確率はいずれも事前に評価することができないため、等価であると考えるしかない。しかし、パン屋が受け入れ、現実に日々消費する物語は、あらゆるパターンの中でも最も彼に充実感を与え、その行動を肯定するものだけである。そのパターンにおいて前提とされている時間的、範囲的、そして例外の範囲は恣意的なものだ。

このように、ある行為による外部効果を恣意的な基準系において予測し、その行為の道徳的な正当性として導入することを「可能性のポリティクス」と呼びたい。自らの行為によって波及的に継起する出来事とそれが人々の幸福感に与える影響について、われわれは「わからない」という以外の言明をすることができないはずだ。しかし実際には、ある特定の時点、範囲、不確実性の程度において発生する状態とそれがもたらす効用だけが行為の結果として事前に想像されており、その想像を消費することで人々は物語というフリンジ・ベネフィット(非賃金所得)を獲得し、日々の気晴らしの一助にしている。

「偽りの物語」とポストモダンアパシー

見てきたとおり、「物語所得」は論理上必然的に、無限の可能性を持つ未来のうちの特定の一部分だけを真実として受け入れ、それ以外の可能性を排除することによって作られる「偽りの物語」を前提としたものになる。我々は投げたボールの軌道を予測することはできるし、ボールが落ちたときに地面が揺れる大きさや音の量さえも、その気になりさえすれば事前に計算することができる。しかし、そのボールを見た時に個々人が感じる情緒や、ましてやそれが「幸福」であるか否かについては、まったく正確な予測をすることができない。高度な心理学の知識によって予測を立てたとしても、それが妥当であったことを検証する手段がない*2。それゆえ、我々の行為が通時的に、範囲の制限なく、不可知の不確実性のもとで他者に与える効用について、我々は「わからない」以外の立場をとることは許されないのだ。

しかし、ある行為の結果が「わからない」という事実を正確に評価してしまうと、それは我々の受け取りを構成する一部分として機能しなくなる。受け取りが存在しなければ、支払いも存在することができない。したがって、人はアパシー*3に陥る。生活のための労働であれば、物語所得がまったくのゼロであっても最低限の労働意欲を持つことができるだろう。そのため、このアパシーNPOやボランティア団体、政治団体などの余暇を活用して行われる社会活動にとってより大きな問題として立ちはだかる。

「可能性のポリティクス」は非常に不誠実である。事実としてわからないものを、わかると強弁して止まないからだ。しかし、この幻想なくしては、人々は最低限の労働以外の何かをすることがもはや全然できないということも、また事実であろう。しかし我々は理性的な個人として、可能性のポリティクスがひとつの集団幻想でしかないことを認識し、特定の行為こそが社会善であり、あるいは正義であると主張する人々から距離を置く必要ことが求められるだろう。その上で、他ならぬ自分自身が余暇を何に充てるかという問題について、正面から取り組まねばならない。

*1:社会学の世界では「マクドナルド・カルト」と呼ぶそうだが、日英両方で調べても該当がない

*2:内観報告によるしかないが、内観報告から認知のゆがみやウソの可能性を完全に取り除くことはできない

*3:無気力

同性婚の不可なるを説く―再生産を巡る報酬的秩序の観点から

Order Gender
Abstract

現在我が国においては、同性愛者であっても養子縁組によって婚姻と同等かそれ以上の実際的なメリットを享受することができる。それでもなお同性婚が要請される理由は、婚姻が単に経済的なメリットをもたらすに留まらず、当事者間に精神的な満足を与えるものであるからに他ならない。

その価値は共同体によって認められ、また与えられるものであるが、ではそのバーターとして夫婦から共同体に捧げられている貢献とは何だろうか。筆者が思うに、それは人口の再生産という代替不可能な貢献である。同性愛者は他の男女が生んだ子を譲渡されて育てることはできるが、それは社会に新たな人口をもたらすものではないし、保育園や孤児院、ボランティアによって代替可能なものだ。一方、最終的に人口を再生産するという夫婦の機能は、現在に至るまで夫婦以外の何かによって担われたことがない。
婚姻という関係にのみ認められる特別な承認は、この特別な貢献と引き替えに与えられているのではないか。もしそうであれば、同性カップルがそれを得ることは困難というほかない。仮に制度上でそれを実現させても、反対勢力による攻撃が常に彼らを不安に陥れるだろう。
そこで、筆者は同性カップルの関係を婚姻制度とは別個のものとして新たに民法上の地位を与え、同性カップルが実際に多くの孤児などを引き受けて共同体への貢献を果たすことで、長い時間を経て独自の名誉ある地位を確立していくことを提案する。その名誉は同じ貢献を果たしている保育園や孤児院、ボランティアなどと同程度のものになるはずだが、それは決して"取るに足りない"ものではないはずだ。

先年の春、東京都渋谷区は「同性パートナーシップ証明書」なるものを発行し始めた。現時点において我が国は同性婚を認めてはいないが、渋谷区の制度を利用すれば擬似的に公的セクターによって承認された結婚的なものを体験することができるため、ゲイリブ運動の界隈では大変歓迎された。
北欧を中心に、すでに同性婚を認めている国も少なくない。我が国に最も影響を与えやすいアメリカ合衆国においても、最高裁判決によって全ての州でこれが認められることになった。キリスト教の信念を理由に同性婚の受付を拒んだ女性事務官が収監された事件は記憶に新しいだろう。
全体的としては同性婚承認の方向に進みつつある自由世界の情勢を踏まえつつ、本稿では我が国における同性婚の承認、すなわち法制化が共同体に与える影響について考察したい。

同性婚とは何か

まず、同性婚という概念そのものについて、ごく簡単に当事者の主張を参照したい。
EMAと称するゲイリブ団体は、公式ウェブサイトで「なぜ同性婚が必要なのですか?」という問いに対し、以下のように回答している。

 

同性愛者は、国や時代を問わず、一定割合存在します。社会のある人たち(異性カップル)には婚姻による全ての法的・社会的な権利と義務関係、そして「結婚」という特別の響きを持つ関係性を認めるのに、一方でその他の人たち(同性カップル)に対してこれら全てを否定するなら、それは差別です。

自ら選択する自由のない、生まれた出自や階級、人種を超えた結婚を禁止するのが差別であるのと同様に、自分で選択したものではない「性」により結婚を禁止するのも差別です。

結婚すると、同居・協力・扶助義務、守操の義務が発生すると同時に、遺産の相続権、被扶養配偶者として年金、医療、税の控除、労災補償の遺族給付などを受けられるようになります。これらの権利義務関係は、配偶者が異性である場合に限定する合理的理由がありません。憲法第14条1項が定める「法の下の平等」の観点からも、同性カップルに平等な権利義務関係を認めることが必要であると考えられます。同性カップルに結婚を認めない現状は「法の下の不平等」です。

社会のあるグループを差別する社会は、そのグループの能力を十分に活動できず、経済的には不利益です。実際、今日同性婚あるいはパートナーシップを認める国の一人当たりGDPは、それらを認めない国の平均の4倍近くになっています。今後日本は40年間に人口が半減しますが、こうした急激な人口減少に対応するために、国民一人一人の能力を最大限に発揮しなければ、経済は一層深刻な縮小を余儀なくされます。

また、配偶者が外国人の場合は、日本に居住したり帰化できるようになります。現在では多くの国で同性婚が認められますが、それらの国で結婚した同性カップルの一方が仕事で日本に赴任する際、配偶者を日本に帯同できないという問題が生じています。日本は高度な知識や技能を有する外国人を受け入れ、経済の活性化を図ろうとしていますが、外国人の同性カップルについて、配偶者の日本の居住を認めないことは日本の経済的利益を損なっていると言えます。

さらに、外国人の同性パートナーと結婚した日本人は、2人の婚姻が認められない日本を離れ、婚姻が認められる相手国に移住することが多く、日本の人口減少に拍車をかけていると言えます。

婚姻の法律上の効果に加えて、結婚は2人の相互理解と信頼、協力と家事の分担などの意味があります。こうした結婚の意味は同性カップルにとっても重要なものです。

emajapan.org

 

この主張は、道徳的側面の実利的側面の二本立てで同性婚を擁護する内容である。すなわち、道徳的には婚姻に伴って発生する諸々の権利と義務を確認しつつ、「これらの権利義務関係は、配偶者が異性である場合に限定する合理的理由がありません」と結論づけている。合理的理由を欠いた区別は不平等であるから、それは差別に他ならない。
実利的にも、諸外国と異なる婚姻制度が高度人材の一部に我が国への移住を断念させていることは、その影響の大小はさておくとして、事実であろう。ただし、経済的利益が見込めるということは、必ずしもその政策を実行しなければいけないという規範的な言説を正当化しない。戦前に実際主張されたように、日本語をまったく廃止して英語を公用語にすれば、海外との経済的な交流が深化され、「高度人材」の移住も進み、投資が容易になるため経済成長に裨益する可能性は非常に高いが、それはあくまで日本語が持つ全体的な価値より経済的な利益を優先するという判断がなされた場合にのみ実行されるべき政策であって、そうした社会的な合意なくして正当化されることはあり得ない。

次に、朝日新聞傘下のネットメディアであるハフィントン・ポスト日本支部が、アメリカ合衆国同性婚をしたゲイカップルに同性婚の意義を尋ねた記事がある。要点を抜粋して検討したい。

―どうして結婚という形を選んだんですか?
浩)愛し合っていれば結婚願望が訪れるのは、男女のように自然なことだと思います。あとは、例えば自分が突然亡くなったら、不動産を合法的に彼のものにできるようにしたかったということですね。(現在の日本では効力のない)アメリカであっても、パートナーに何か残せるものがあるといいですよね。

デ)18年付き合ってきたけれど、「浩二さんはあなたのボーイフレンド?パートナー?ルームメイト?」そう聞かれたときに「夫です」と答えたい。そのシンプルな理由です。

―お住まいの区に、パートナーシップ条例が制定されたら使いますか?
浩)もちろん使います。元々オープンリーだから、カミングアウトの問題もありませんし。

―子育てはしたいと思いますか?
浩)僕はしたい。でも、彼はそうじゃない。

デ)うん。ゲイカップルも、ストレートのカップルのように、子供を持ちたいか持ちたくないかを選べる。ケースバイケースですよ。

www.huffingtonpost.jp

 

こちらも、実利的な側面について議論に及ぶ必要はないだろう。「自分が突然亡くなったら、不動産を合法的に彼のものにできる」ことは、なるほど婚姻関係の果たしている大きな役割のひとつである。むしろ、注目すべきは、『「浩二さんはあなたのボーイフレンド?パートナー?ルームメイト?」そう聞かれたときに「夫です」と答えたい』という情緒的な理由である。この必要は、仮に同姓パートナーシップ制度が国法に取り入れられ、妻でも夫でもない「パートナー」なる*1立場が新しく創設され、名称以外の全ての側面において婚姻関係と同様の権利および義務が認められたとしても、なお満たされたことにはならないだろう。
こうした動機は、EMAによる説明にも見ることができる。彼らはそれを、『「結婚」という特別の響きを持つ関係性』という言葉で表現している。本稿では、これを婚姻の道徳的価値と呼ぶことにしよう。

同性婚と養子縁組制度

既に述べたように、我が国において同性婚は認められていないが、同性カップルの一部はすでに民法上の「養子縁組制度」を活用して、擬似的に同性婚と同様の法的関係を成立させている。同性カップルが養子縁組制度を活用した場合の影響について、セクシュアル・マイノリティ法務支援を担うゲイリブ団体であるレインボーサポートネット(RSN)は次のように解説している。

養子縁組のメリット
  • 法律上の家族になることができる
  • 養子は養親の財産を相続する権利を有する(その際、遺言は不要)
  • 養親は養子の財産を相続する権利を有する(その際、遺言は不要)
  • 共同の財産を作ることができる(例えば、不動産の購入など)
  • 入院や手術の際に、「同意書」にサインすることができる

など

 

養子縁組のデメリット
  • 将来、パートナーと婚姻(結婚)できなくなる 注1
  • 他に家族がいる場合、その者の理解を得にくい  注2

  • 苗字が変わる 注3


注1
一度養子・養親の関係になった場合、離縁したとしても婚姻はできないため、将来、同性婚を認める法律ができた場合のデメリットとなります。ただし、特例が認められる可能性はあります。

注2
養子縁組により、相続関係に影響が出る場合も考えられます。そのため、それを納得しない人が現れる可能性もあります。

注3
養子は養親の苗字を名乗ることになるため、それに付随する作業(例えば免許証などの書き換えなど)が発生します。また、職場などでの対応(例えば、カミングアウト)についても考える必要があるかも知れません。

など

rainbow-support.net

 

養子縁組のメリットを参照すると、これらが現行の婚姻制度によって男女に認められている法的な権利とほぼ軌を一にしていることに驚きを禁じ得ない。当然、扶養控除も(配偶者特別控除を除いては)利用することが許される。医療現場における「家族の壁」はしばしば同性婚賛成派の論者によって主張される論点であるが、養子縁組は「家族」形成するため、容易にこれを解決することができる。
一方で、デメリットとしては三点が(”など"を伴わない形で)挙げられているが、一点目については、同性婚が認められるような世論が形成された際に既に養子縁組を選択したカップルへの特例は認められないような状況は現実的に想定しづらいため、検討する必要性は高くないだろう。二点目については、現行の男女の婚姻にも同様のトラブルはつきものであるため、養子縁組に特有のデメリットであるとは考えにくい。遺留分を除けば遺言によって遺産の処分方法は裁量的に指定できるため、決定的な論点とはなりづらいだろう。三点目は、現行の婚姻制度も片方が氏を変更することを要求しているため、養子縁組に特有のデメリットとはいえない。同性婚の問題ではなく、夫婦別姓問題の問題として扱われるべき事柄である。

先述のゲイリブ団体EMAは、婚姻に伴う法的な権利義務関係として「同居・協力・扶助義務、守操の義務が発生すると同時に、遺産の相続権、被扶養配偶者として年金、医療、税の控除、労災補償の遺族給付」を挙げていた。権利の側面に関しては、養子縁組によって配偶者特別控除を除けば、ちょうど両親に扶養される成人した学生と同じように受けることができることがわかる。社会保険にも被扶養者として加入可能であるし、遺族厚生年金も失効しない。義務関係についても、刑法は近親相姦罪を既に廃止しているため、貞操の義務が発生しない以外はほぼ同様である。同居の義務は民法上では発生しないが、社会保険や年金、税金の被扶養者控除の条件として要求されている場合がほとんどであるから、実際的には発生するものと考えるべきだろう。義務というものは個人の自由権を制約するものであるから、貞操の義務が要求されないことは、フランスの民事連帯契約のあり方に近く、むしろ同性婚よりも養子縁組が優れている点として肯定的に評価されるべきだ。なお、どうしても貞操の義務に束縛されたい場合は、親子間で同様の民事的な契約を交わせば口頭であっても民法上の義務が発生するため、希望するカップルは任意にこれを契約することができる。

婚姻の道徳的価値

以上の議論を総合すると、我が国の同性婚状況は世界的にも奇異な状況に置かれていることがわかる。同性による婚姻が認められていないにもかかわらず、養子縁組によって通常の結婚を部分的に上回る法的な権利義務関係が手に入る。婚姻制度に劣る唯一の点は配偶者特別控除であるが、これは妻の年収が76万円以下であり、かつ夫婦の合計した所得が1千万円を下回る場合に3~38万円の所得控除を受けることができる制度であり、一国の婚姻制度を左右する論拠としてはあまりにも貧弱である。しかも、現在の与党はこの制度が女性の就労促進を妨げているとして、これを廃止する議論を進めている。
すなわち、驚くべきことに、我が国は「婚姻の道徳的価値」を除けば、同性パートナーに結婚とほぼ同様の権利義務関係の享受を既に認めているのだ。それでもなお我が国において同性婚を要求する言説があり得るとすれば、それは「婚姻の道徳的価値」の獲得を目指すもの以外にあり得ないだろう。

それでは、婚姻の道徳的価値の内容とは何であろうか。
これについても、EMA日本が先に引用した『「結婚」という特別の響き』について部分的な説明を加えている。

Q.
そもそも、「結婚制度」自体が時代遅れではないですか?

A.
夫と妻の性固定的な役割がなくなりつつあり、結婚=妻が夫の家庭に入って経済的に夫に女性が依存するという社会でもなくなってきました。また、社会や文化が結婚を当然視するとかいうこともなくなってきました。つまり、結婚制度は、古い社会の性固定的な役割意識や男性による女性支配を必ずしも意味しなくなっています。したがって「結婚制度」自体を否定する必要性は小さくなったのではないでしょうか。

今日においても、人々は「結婚」に感情的な意味や価値を見い出し、それにより社会的な認知を得て、文化的な関係を築くという意味は減じていません。つまり結婚制度は現代でも意味を有すると考えられます。

「結婚制度」は、世俗化や市場化の流れの中で、その性格を柔軟に変化させ続けることで持続してきました。同性婚を認めることは、時代に相応しい結婚制度の発展であると言えます。

emajapan.org

 

本稿においては「感情的な意味や価値」や「社会的な認知」、そして「文化的な関係」の内実に立ち入る必要があるのだが、どうも容易に説明しうる概念ではないようだ。欧州連合などが標榜する「共通の価値」の内実が自由主義だけでは説明できないことと同様の歯がゆさを禁じ得ない。また、その内実は少なくとも経済的、即物的なものではあり得ないから、それを享受している、あるいは誰かが享受しているのを目の当たりにしてそれを羨んでいる誰かにしか説明できないものかもしれない。
単に「結婚すれば周囲が祝ってくれる」ということが婚姻の道徳的価値の内実であるならば、以前報道されたようにディズニーリゾートのような同性婚に親和的な施設で挙式し、渋谷区に届け出を提出すれば事足りる。また、同性婚が許容されたからといって、同姓パートナーシップの成立や養子縁組の成立を祝福しない人が突然同性婚を祝福するようになるわけではない。つまり、社会的な是認や祝福はあくまで社会の同性婚に対する態度に依存しており、名前をパートナーシップ、養子縁組、そして結婚と変更したところで特定の同性カップルを祝福する人々の数が増えるわけではない。むしろ、アメリカでキリスト教保守派がそうし、イスラム過激派もそうしたように、敵意を露わにする人々が出現することも考慮して評価せねばならないだろう。

しかし、婚姻の道徳的価値について唯一確実に言明できることは、その価値が同性カップル本人らの主観的満足のためのものであり、公共の利益を増進する目的を持っているわけではないということだ。「パートナー」や「養子」から「夫婦」へと名前を変更することで満足感を得るのは、何らの齟齬なく「結婚」、ないしは「夫婦」という言葉が持つ「特別の響き」を消費することができるパートナーら当事者に他ならない。

婚姻の公共的性質

さて、EMAの議論によれば「これらの権利義務関係は、配偶者が異性である場合に限定する合理的理由がありません」としているが、この命題ははたして真であろうか。
たとえば貞操の義務は、子の養育はその子を出産した女性が単独で負担するものではなく、通常は夫婦で負担されることが想定されることから要請されているものと考えることができる。いわゆる「托卵」のような行為が横行すれば、実際に性行為に及んだ男女が生み出した負担のうち大部分を別の男性が負担することになる。一方、男性が既婚の女性といわゆる不倫に及んだ場合も他の家庭において同様の状況を生起させることになるから、男女双方に貞操の義務を課すことは合理的であると考えられる。同様の理由から、女性について離婚後一定期間の再婚禁止規定がある。

ただ、ゲイリブ運動は義務を増やすことではなく権利を増やすための運動であるから、まずは婚姻に付与される権利関係が「配偶者が異性である場合」に限定される合理的理由を探すことにしよう。
同性婚と婚姻の決定的な差異として、出産の有無が挙げられる。婚姻はその義務によってある男女に持続的な共同生活を要請するから、長い養育期間によって女性が稼得能力を失い、あるいは保育所などの費用のために稼得の一部を手放す必要に迫られるにもかかわらず、夫婦の相互扶助義務によって養育の完遂をかなりの程度現実的にする。仮に離婚があった場合でも、裁判所は子を手放す側の稼得の一部を、公平で予測可能な基準によって引き続いて養育する側に移転する。他方で、同性婚は生物的な制約から、子を出産し社会に新たな人口を供給する機能を持たない。他の夫婦が出産した子が同性婚の夫婦に譲渡される場合があるが、この機能は孤児院や既に子育てを終えた夫婦、あるいは既に実子を持っている夫婦など、子の養育を移転元の夫婦と政府に対して誓約することができる者であれば、誰であっても、いかなる人数によって構成される団体や企業であっても果たすことができる。
しかし、人口を再生産するという機能は男女による婚姻がなくては果たし得ない。卵子は特定の精子から受精する必要があるから、孤児院や保育所が無償かつ無制限に供給されたとしても、誰かしら出産させる意思がある男性が必要になる。科学的には、一部の男性の精子を保管した後に多くの女性に投与し、子は必ず政府に譲渡するといった方法によって婚姻によらない人口の再生産は可能であるが、それに男女が同意する見込みがないから現実的ではない。少なくとも「男女による婚姻なくして人口を再生産することは、現在までの人類史において可能であったことがない」という命題は真といえるだろう。

いうまでもなく、同性婚に関する議論においては、人口の再生産は社会にとって善である。少なくとも、EMAを筆頭とする同性婚賛成派の論者は組織は、同性婚に肯定的な北欧圏との出生率の差を根拠に「同性婚少子化を解決する」と主張することがある。EMAも我が国の少子化や労働力の不足を問題にしており、「高度人材の受入促進」が同性婚の効用として挙げられるのもそのためである。

同性婚賛成派によるかかる議論を前提にするなら、現在に至るまで社会に人口を供給してきた男女による婚姻に対して、ある種の肯定的な価値を認めないわけにはいかない。ところで、現行法において婚姻には様々な権利・特典が付与されており、社会的な祝福や「特別な響き」に代表される「婚姻の道徳的価値」も与えられているわけであるが、これは「不合理な差別」ではなく、人口の再生産という社会全体に対する貢献に対する恩典として説明することができるのではないだろうか。

事実として、男女による婚姻は現代の我が国においてもその貢献を続けている。合計特殊出生率の低下が叫ばれているが、これは未婚者の増加が主な原因であり、実際に結婚した男女が生む子の数量を平均した完結出生児数は70年代以来、ほぼ横ばいである。

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同性婚によって転倒する価値

既に説明したように、男女による婚姻は人口を再生産するという一点において、代替不可能な共同体的価値を有している。いっぽうで、同性婚によって同性カップルが「結婚の道徳的価値」を消費することは個人的な動機による個人的な価値である。
既に婚姻と同様の実利的価値を養子縁組によって享受することができる以上、我が国が同性婚を認めることは男女による婚姻に固有の恩典として唯一遺されていた「婚姻の道徳的価値」を、人口の再生産を担わないカップルに認めることにほかならない。その場合、当然ながら婚姻の道徳的価値は恩典としての機能を果たさなくなる。子供を有さない場合でも、婚姻によって道徳的価値を消費することが可能となってしまう。

婚姻の道徳的価値が、ゲイリブ当事者らの様々な努力―同姓パートナーシップ条例、ディズニーリゾート挙式、協力者らよる「夫婦」としての承認、当事者間による夫婦を模した振る舞い―によっても複製することができず、あくまで男女と同様の婚姻の枠組みに内包されることを運動の目的とするのはなぜだろうか。それは、婚姻の道徳的価値が当事者の内心や、アライと呼ばれる協力者らのような小集団によって生成しうるものではなく、あくまでも遍く共同体全体から与えられる徽章でなくてはならいからだ。民主的な国民国家の法制によって認められることは、なるほど記号的に「共同体全体からの承認」を表象している。
しかし、共同体に対して排他的な方法で利益を与える手段を持たない同性婚に男女による婚姻と同様の恩典を与えてしまえば、共同体への貢献を共同体が称讃し、個人への貢献を個人が称讃するという原則が崩されてしまう。

憲法によってあらゆる恩典や貴族を廃止した我が国において、制度が個人に対して道徳的な是認を与えることは非常に稀である。同性婚賛成派が主張するように、制度における婚姻が夫婦に実際的な便宜に留まらず特別な形而上的恩典を与えているのであれば、それは夫婦にしか果たすことができない共同体への貢献、すなわち人口の再生産に対して捧げられたものと考えるべきだろう。実際、この恩典は「花嫁」という言葉と結びつき、それに付随する想像とともに若い女性が結婚を志向する大きな文化的要因であり続けてきた。
同様の恩典を同性婚に対して与えてしまった場合、同性カップルの個人的な利益、あるいは同性カップルによる養育という他の様々な個人や団体によって代替可能な共同体への貢献に対して、再生産というかけがえのない貢献と同様の恩典を共同体が与えることになってしまう。
ゲイリブ運動は、我が国において同性婚を勝ち取るとほぼ同時に、そのことを祝し宣伝するための大規模な活動を行うだろう。それはおそらく、現在各地で行っている同性婚を要求するための運動やパレードと同様かそれ以上に大規模なものになるに違いない。同性婚が法制化されたとき、当然ながらゲイリブ勢力はかなりの政治力を持っていることが想定されるから、マスメディアも忌憚なくこれに協力するだろう。
そうすると、今まで子を再生産し、責任を持って育て上げてきた夫婦にとって、彼らに与えられていた名誉や恩典が陳腐化し、責任ある再生産という義務をもはや条件としなくなったことは火を見るよりも明らかになる。現在でも中年以上の夫婦が、「私は3人の子を責任を持って育て、社会に貢献した」という意味のことを誇らしく口にすることがある。同性婚によって失われるものは、こうした名誉感情なのだ。

かかる恩典が陳腐化し、様々な責任感や名誉の感情が失われることによって、男女による夫婦が実際どういう行動に出るかということを筆者は予測することができない。しかし、ひとつ指摘できるのは、欧米諸国でそうであるように、同性愛者が様々な異性愛者の権利を複製し、パレードなどを開催して自らの存在をアピールするようになるにつれて、それに反対する勢力との軋轢が増していくという事実である。6月12日に発生した米国オーランド市の銃乱射事件においては50人が死亡したが、容疑者の動機はイスラム過激主義というよりも、同性愛者への強い憎悪であったことがわかっている。いわゆるヘイトクライムは、アイデンティティ・ポリティクスの発展とともに成長してきたことを見逃すことはできない。
ゲイリブ運動に批判的な勢力の思想は、多くの場合単に宗教的な迷妄であるとか、共通の敵を作るためのプロパガンダであるとしてあまり検討されない。しかし、今までの議論を踏まえれば、本来であれば保育所や孤児院、その他小児の養育を行うあらゆる夫婦以外の個人・団体と同様の名誉・感謝にしか値し得ない同性愛者が、僭越的に夫婦と同様の恩典を要求することへの反感・不公平感という観点から説明できるのではないだろうか。

結論および「子無し夫婦」に関する附論

ゲイリブ運動が求めている「同性婚」の精神的中核を成す「婚姻の道徳的価値」は、いうまでもなく記号としての法制度の背後に事実としての社会全体による称讃、感謝の念が込められている。仮に政治力によって同性婚を勝ち取ることが可能になったとしても、同性婚が婚姻と同様の恩典を受け取り、貢献を僭称することに対して反感をもつ人々が消滅するわけではない。政治力の勾配によって不可視化されるだけである。そして、不可視化された不満は、時に暴力的な形で暴発する。これは在特会の起源や主張にも見られる一般的な現象である。
「婚姻の道徳的価値」は、それに対応する貢献をすることによってしか、事実としての承認を伴った形で得ることは出来ないだろう。だから、それを欲するのであれば、昭和時代の同性愛者と同じように異性と結婚し、子を設ける以外に方法がない。同性愛者が果たしうる公共的な貢献が別の夫婦あるいは異性愛者が生んだ子を譲渡され、責任を持って養育するということに留まるのであれば、社会から受け取るべき恩典は保育士や孤児院、あるいは現に養子を引き受けている夫婦の恩典から、夫婦であることによる恩典を差し引いたものと等価であるべきだし、実際のところ、同性婚を法制化したとしてもそれに対応する反対派の攻撃によって、自動的にこの水準まで押し下げられるだろう。それゆえ、筆者は同性カップルに対して、婚姻という既存の規範に無理矢理自らを挿入するのではなく、養子縁組制度や婚姻制度に類似する新たな民法上の関係を創設し、多くの同性カップルがその立場から養子を養育し、社会全体に貢献することによって、新たな恩典を長い時間をかけて形成していくことを勧めたい。

また、以上の議論について、子を持つことが確実に不可能な夫婦であっても、男女でありさえすれば婚姻が可能であるため、婚姻の道徳的価値と人口の再生産の対応性は既に崩されているという指摘があるにちがない。この指摘は、二つの点において誤っている。第一には、子を持つことが確実に不可能な夫婦が婚姻し、それを終生維持できるようになったのはごく最近のことであるということだ。現行の民法典が制定されてからも長い間、家系の維持を求める親族の圧力によって子を持たない、あるいは数年を経て持つことができなかった夫婦は解体させられ、別の異性との組み合わせで再度出産を試みることを要請されてきた。第二に、子無しの夫婦はゲイリブ勢力のように、自らの存在や特性をアピールし、宣伝することは絶対にしない。むしろ彼らは子を持てないことをスティグマとして認識しており、婚姻の交渉の際にも劣った身体的特徴のひとつとして扱われる。それゆえ、子無しの夫婦はちょうど同性婚に対する恩典が反対勢力の攻撃によって差し引かれるのと同様に、これらのスティグマによって差し引かれた形でしか婚姻の道徳的価値を享受していない。それゆえ、子無しの夫婦による婚姻は、婚姻の道徳的価値と人口の再生産の対応性を揺るがしてはいないのである。

本稿において、筆者は同性婚賛成派の議論を整理したうえで我が国における婚姻制度と養子縁組制度の関係を仔細にわたって検討し、同性婚賛成派の要求が「婚姻の道徳的価値」の一点にあることをあきらかにした。その上で、人口増が善であるという同性婚賛成派・反対派の間で意見の相違がない前提から出発して、「合理的な根拠のない差別」であると考えられがちな男 女による婚姻に対する形而上的な恩典について、人口の再生産という代替不可能な貢献に対する報酬であるという説明を提供した。かかる観点から同性婚に反対する勢力の動機や子無し夫婦の情緒についても一定の説明を与え、同性婚賛成派が求めるべき適切な運動目標を提案した。また、非常によく混同される同性カップルの「他者の子を譲渡されて養育する機能」と「最終的に人口を再生産する機能」を明確に区別して論じた。
ただし、本稿はフェミニズムやクイア研究と称する分野の先行研究や、婚姻の意義を追求した人類学の先行研究を参照し、あるいは前提としたものではない。あくまでも我が国の現代における婚姻と同性婚に注目し、短時間で入手できる資料を基に考察を進めている。また、中途で同性婚の経済的・実利的な価値についての議論に触れることがあるが、この点についてはくわしく検討していない。
道徳的な価値を毀損するとしても、その代償に大きな経済的繁栄が手に入るならそれを受容すべきとする議論も考えられ、また、大きな支持を受ける可能性がある。それゆえ、北欧諸国の出生率や経済成長と同性婚の関係については、同時に進行している移民の流入といったファクターの影響も踏まえたうえで厳密な因果関係を析出する作業が求められるだろう。また、近代以前において同性愛を許容する価値観や法制度が存在したことはしばしば指摘されることであるが、現代まで残り、反映している文明や宗教は、みな同性愛・同性婚を禁止するか、少なくとも好意的な立場はとらないものであった。同様の傾向は男系主義と女系主義においても観測できるが、これを人類学の立場から社会ダーウィニズムや自生的秩序の議論を前提に考察することも、実りある今後の研究課題となり得るだろう。

*1:名前は何でもよい

クリティカル・シンキングってなんだ?―ICUに潜む"ignorance"を検証する

Education Politics

最近話題がローカル寄りになってしまい、大変申し訳なく思っている。コミュニケーション・コストと共同体についての議論をまとめたいと思いつつも、なかなか巧くいかない。そんな中、話題を呼んでいるフロリダの銃乱射事件について、本学のある卒業生がこんな投稿をした。

6月13日(月)15時07分

あまりこんなことを投稿したい訳では無いけど、さすがに日本のメディアのignoranceに我慢できなくなって、、、

Firstly, rest in peace and power to the innocent victims who lost their lives. I pray for strength to those who have been injured and to all who have been affected.

この銃撃事件について日本のメディアも取り上げているけれど、ISISが関わっていたテロだということだけを重点的に言って、事件現場がLGBTのバーだったということを一切言わないのはなぜ?

どの記事を読んでも、ニュースを見ても、ただ「ナイトクラブ」としか記載されてない・言ってなくて、例え同性愛者が集まる場所ということに関して触れていても、最後におまけレベルでしか取り上げていない。(これは5/13の午前中の時点で。時間が経つにつれて増えてきている。なので時間の問題かもしれない。)

でもアメリカのニュースや海外の友達の投稿を見ていると、今回の件においてはLGBTQのマイノリティーがターゲットであったことにとてもsignificanceがあることが感じられる。ただのナイトクラブで起きるのとはまた全然違ったメッセージ性と意味合いがある。

なのに、その点について深掘りしようとしない日本のメディア。改めてこの国の保守的さを感じた。そこまで事実について触れるのが怖いの?なぜ情報をそこまで濁すの?

私には理解ができない。もっと誠実に現実・事実と向き合いジャーナリズムに取り組んで欲しい。でないと本来のジャーナリズムの役割を果たしていない。最近なんて芸能人の不倫報道ばかりで、このままでは日本は無知の人々の集まりになってしまう。

私はそんな社会が嫌だ。よりリベラルでオープンな心で全ての人々を受け入れられ、違いを価値として分かち合える、誰もが活躍できる社会になって欲しい。今回の事件の報道のされ方を踏まえて改めて、日本という国のマイノリティーがどれだけ苦しんでいるか考えさせられた。

日本は単一民族として知られていて、非常に平等で格差が比較的少ない社会として認識されているが、実はこれはとてつもない嘘で現実はそんな社会とは程遠い。

どれだけ部落の人々が福島原発後に苦しんだか、移民の人たちが働く権利を得られないか、LGBTQの人々に対する理解がないか。先日はご縁がありディスレクシアのシンポジウムに参加したが、如何にその病気自体が認識されてなくて (ディスレクシアという単語が変換機能で出てこないくらい)、彼らへの支援が日本では整っていないかを学んだ。私自身も帰国子女として、全てがルール化されている社会で苦しんだ経験もある。この社会はどれだけマイノリティーにとって生き辛いものか。

なぜ日本は平和な国として認識されているのか。それはあまりにも型のはまった社会で、保守的で、マイノリティーの人たちがとてもでもないけど声を上げられない、もしくは声を聞いてもらえないから。そんな人達が永遠とサイレントにいるくらいだったら一見荒れているように見えるけれどもアメリカのようにオープンに人種差別、宗教、政党について目に見える形で議論し、戦い、運動がある方がよっぽど健康的な社会だと思う。

なぜかすごく今回の事件の報道のあり方にとても不満を感じ、熱くなってしまった。でもメディアは当然ながら国民の情報の源であり、それに基づいて人々は考えを構築し、行動を起こすわけだから、彼らには本当に肝心な事実をありのままに提供して欲しい。そして、改めて自分も無責任な言動や行動に気を付けなくてはいけないと思った。

そして、この事件の報道のあり方から感じられた日本の保守的社会と文化。これをどうにかしたい。平等で平和と思われがちな日本社会だけど、気付かれていないだけで、蓋を開けてみるとそうでもない気がする。恐らくこれで苦しんでいるのはマイノリティーだけではない。誰にだって色々な事情があるから、お互いを理解し合い、受け入れる心が大切だ。きっとこれを思っているのは私一人ではない。一緒に日本社会を全ての人のために良くしませんか?誰もがありのままで受けいられ、活躍できる機会を得られる社会に。

今回この報道のされ方の違いに気付いたのは世界中の友達との繋がりのおかげ。こんなにも同じ事件について違う捉え方がされるなんてびっくりしちゃいました。改めて、リベラルアーツの考え方で、クリティカルシンキング、全ての情報を疑い、色々な視点から物事を見ることの大切さを感じました。自然とそんな風に考えるように育ててくれた自分の育った環境や共に過ごした人々に感謝です。

 (1966文字)

公開設定で投稿されていたため、そのまま引用させて頂いた。

今日はこの投稿を批判的に検証しつつ、この投稿に対する在学生はじめ関係者の反応についても検討し、ICUにおける"ignorance"の所在について考察を加えたい。

投稿の要約

問題の投稿は、非常に感情的に書かれているので要点がつかみにくいが、要約すると以下の通りだろう。

  1. 日本のメディアはignorant(無知)である
  2. なぜなら、イスラム国関連のテロであることは報じているのに、事件現場がLGBTのバーだったことを一切言わないからだ
  3. 私は複数の報道を参照したが、現場について「ナイトクラブ」以外の言及がなかった
  4. 例外的には同性愛者が集まる場所であるということに触れている報道もあったが、それらは「おまけレベル」でしかなかかった
  5. 一方、アメリカのメディアは同時点で「LGBTQ*1」が標的であったことをsignificance(重要性)をもって取り上げている
  6. したがって、日本のジャーナリズムは現実・事実と誠実に向き合っておらず、ジャーナリズム本来の機能を果たしていない
  7. 今回の報道を通して、日本におけるマイノリティーの苦しみについて考えさせられた
  8. メディアは国民の思考の源泉であるから、肝心な事実をありのままに提供して欲しい

その後、合計2000字に至るまで、目を覆うばかりの日本批判が列挙される。リベラルでない、オープンでない、芸能人の不倫報道ばかりだ、格差社会だ、福島原発、移民拒否…とばかりにまくし立てられている。個別の論点の検討は別の記事に譲るが、特に論理的な根拠が示されているわけではない。

そして、最後は次のような言葉で結ばれている。

今回この報道のされ方の違いに気付いたのは世界中の友達との繋がりのおかげ。

こんなにも同じ事件について違う捉え方がされるなんてびっくりしちゃいました。改めて、リベラルアーツの考え方で、クリティカルシンキング、全ての情報を疑い、色々な視点から物事を見ることの大切さを感じました。自然とそんな風に考えるように育ててくれた自分の育った環境や共に過ごした人々に感謝です。 

 投稿者が上記のような認識に至ったのは、「リベラルアーツの考え方(=色々な視点から物事を見ること)」と「クリティカルシンキング(=全ての情報を疑うこと)」のおかげだと自負していることが窺える。

日本のメディアはignorantだったのか?

リベラルアーツとクリティカルシンキング。これらは確かにICUの初年度過程で強制的に履修するELAという講義で1年弱をかけて学ぶものであり、ICUがスーパーグローバル大学に認定された大きな理由でもある。

さて、では投稿者がこれらの能力を存分に発揮して気がついた日本メディアへの違和感は、果たして実体のあるものだったのだろうか。

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上記の画像をご覧頂きたい。これは、筆者が独自に6月12日から13日深夜にかけての日本メディアの、さかのぼれる限りで初動に近い報道を調査したものである。テレビ局系を中心に既にページが削除されているものも散見されたが、この場合は他サイトのキャッシュを参照した。順序は概ね報道のなされた順になっている。

じつに13件のうち、同性愛者のクラブであることについて言及していないのはたったの2件である。百分率にすれば11%だが、これを以て事件現場がLGBTのバーだったということを一切言わないのはなぜ?」という問いを成立させることは果たして可能だろうか?

もちろん、投稿者は同性愛者についての言及が例外的にされていることにも触れているが、やはり「おまけレベル」だと考えているようだ。だが、実際には同性愛者のクラブであることを述べていない記事がむしろ例外的であるし、保守的であるとして知られている産経新聞社は「同性愛者」をタイトルの先頭に掲げた記事を、12日21時の時点で掲載している。

この状況をもって、日本のメディアに対して"ignorant"であるとか、ジャーナリズム本来の機能を果たしていないとか、誠実でないとかの批判を加えることは、少なくとも理性的な人間には難しいというほかないだろう。

海外メディアはリベラルで寛容なのか?

では、筆者が日本のメディアと対比する形で称揚しているアメリカのメディアは、日本時間6月12日前後の時点では何を報道していたのだろう。

ロイターはイギリスのメディアだが、この事件を頻繁に扱っている。この記事をご覧頂きたい。もちろん、アメリカに駐在する記者が書いたものだ。

日本の時事通信の「ゲイバーで」のような形で、ゲイのクラブであることは初動で言及されている。ただし、ゲイという言葉は冒頭で見られる(上のサムネイルに入っている)箇所が最後だ。それ以降は、現地の警察へのインタビューや、当局者がテロかどうかを見極めようとしているといった内容が続く。もちろん、ヘイトクライムであるという指摘もなければ、LGBTという言葉も登場しない。インド標準時で12日午後8時過ぎだから、その頃日本は13日午前0時前後である。むしろ遅いほうに属するだろう。

アメリカの代表的なメディアであり、リベラル・民主党派として知られているワシントン・ポストも、12日の事件直後の段階では通信社の情報をそのまま引用し、事件についての事実関係を報道するに留めている。

アメリカのメディアはウェブ上の記事を"Live Update"と称して逐次更新していく習慣があるため、過去のある時点における報道を正確に把握することは困難だ。オバマ大統領が事件を明確にLGBTの結びつけたコメントを発表して以降は、どの記事もLGBTについて"significance"をもって言及している。ただし、ワシントン・ポストのメイン記事のタイトルは、それでも"Gunman who killed 49 in Orlando nightclub had pledged allegiance to ISIS"(オランドのナイトクラブで49人を殺した銃乱射犯はISISに忠誠か)である。LGBTよりテロを重視する比重は変わっていないし、同じ12日に事件の直接報道以外で最初にこの事件と関連づけて書かれた記事は"Orlando shooting: The key things to know about about guns and mass shootings in America"(オランド乱射事件:アメリカにおける銃器と乱射事件について知らねばならないこと)である。アメリカでは、今回の事件は銃規制の強化という新しい論点を大統領選挙に加えたものと考えられている。

筆者の英語力の限界から、あらゆる英語圏のメディアを子細に検討するわけにはいかないが、2つの主要なメディアを検証することができた。12日~13日の時点では、いずれもLGBTの問題よりもテロや銃規制、あるいは事件そのものの状態を話題の中心に置いており、日本のメディアにおける報道のされ方と大きな差はなかったように見受けられる。

もちろん、13日以降はオバマ大統領の「ヘイト」発言もあり、LGBT問題を取り上げるメディアが大幅に増えている。日本でも、13日正午の時点で複数のメディアがこれを取り上げている。

www.asahi.com

*2

ICUクラスタの反応

冒頭に挙げた投稿は非常に強い調子のものであったが、メディアの動向を子細に検討してみると、投稿者の批判のうち大部分が事実に基づいているとはいえないことがわかる。

では、ICUの学生・卒業生らの間では、この投稿はどう評価されたのだろうか。こちらも、公開設定で投稿されていたものだけを匿名で引用した。

 ホントだね。かなりの違和感を感じてた

色々な状況に立たされている人々に心を傾けられて、かつ義憤まで感じられる投稿者のハートを尊敬するよ

同意すぎてシェアさせてもらったよ‼︎‼︎どうにかしてこの体制がかわって欲しい

 この投稿は166件の「イイネ!」と12件のシェアを獲得しており、一般人による政治的な投稿であることを踏まえればかなり高い水準の支持を獲得している。上記のように、同意する投稿が目立った。

一方で、実際にメディア業界で働く人物からは、批判的なコメントが寄せられることも散見された。

 水を差すようで悪いけれど、日本のメディアでも「同性愛者の集うバー」ということに触れているものはないわけではないよ。TBSに産経、朝日にNHKのニュースでもそう取り上げられていた

この記事で検証したような事実を指摘していた人物もいたことを述べておかねばならないだろう。だが、この投稿が事実をあまり重視していないものであるにもかかわらず、既に述べたような多くの好意的な反響を獲得していることは残念ながら事実である。

 総括

投稿者に「色々な視点から物事を見ること」と「全ての情報を疑うこと」を教えたELAの講義は、当然ながら筆者も履修している。1年次はほぼ全ての時間がELAに割かれていた。

人々の感情に訴えかけ、事実に基づかない煽動によって特定の政治的立場の支持を広げようとすることを「プロパガンダ」と呼ぶ。ELAがクリティカルシンキングを強調した最大の理由は、学生一人ひとりがプロパガンダに影響されず、独立した思考者として社会に対峙するためであった。ところが、この投稿の出現とその拡散は、図らずもリベラルアーツ教育とクリティカル・シンキングの限界を露呈したというべきだろう。

ICUの学生と卒業生は「福島原発」「移民」「マイノリティ」といった論点については、ELAで得た武器を全面的に活用して奥の深い思考ができるに違いない。しかし、その武器は自らが好意を持っている対象に向けると、たちまちガリガリ君の棒のような無力な何かに変わり果て、どんなプロパガンダでも諸手を挙げて賛同してしまうようになる。

今回、筆者のような観点からこの投稿を批判的に検討することは、フェミニズムLGBTライツというイデオロギーの運動にとって、少なくとも利益にはならない。そのため、他の問題に関しては誰よりも批判的であった学生であっても、30分もかからずに調べることができる事実を検証することができず、「イイネ!」を通じてデマゴーグを祭り上げ、シェアを通じてプロパガンダの拡散に協力する醜態を演じてしまうのだ。

どんな能力も意思なくしてはその機能を果たさないのと同じように、クリティカル・シンキングも中立的な観点や知的誠実さと呼ばれる概念を有していなければ、自らの好意的なイデオロギーのプロパガンダに荷担する結果を招き、ignorantゆえにどんな知的営為も為し得ない場合よりも悪い結果を招くことがある。

ELAの教室で実際に教わり、今も記憶に残っているJennifer先生のシンプルな教訓を引用して今回の結びとしよう。

Your argument needs to be based on good eveidences. (Jennifer, Y)

 

*1:同性愛者の一種。ここでは細かい用語については扱わない

*2:時事通信提供の記事

自由恋愛主義はジェンダー・ロールを強化する(改)―多様な供給と一様な需要

Gender Human Economics

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高齢者層ほどジェンダー・ロールをはじめとする伝統的価値観に親和的であり、若者ほどそうではない。この考えはよく普及している割には、その原因を問われる機会に乏しい。たしかに、30年ほど前の日本において高齢者・年配者と言えば「戦前生まれ」「昭和一桁生まれ」の世代であり、教育制度からして戦後のそれとは異なっていたため、年齢と伝統的価値観への親和性が比例する原因を検証する必要は無用に思われたかも知れない。
しかし、現代において高齢者といえば、それは団塊の世代か、それ以降に生まれた世代を意味する。現代と同じような平等主義・民主主義教育を受け、新字体に親しんで育った世代だ。よく知られているように、団塊世代といえば安保闘争、ヒッピーの世代である。これは当時の(戦前世代の)大人たちの顰蹙を買っていたし、団塊世代に続く50年代世代は既存の価値観・常識が通用しない「新人類」と揶揄されている。
多くの社会学者やフェミニストが口々に「保守的」であり、頑迷であると批判する高齢者層も、若かりし頃は「保守的な」大人たちから諫められ、窘められながら生きていた革新的な世代であったのだ。

それゆえ、我々は本来「革新的な」世代であったはずの団塊・新人類世代が、今や「保守的な」世代へと姿を変えた理由について、改めて説明を試みなければならない。加齢と保守化についてはたしかに人類の一般的な相関関係が見られるかも知れないが、ジャン=ポール・サルトルは終生「保守化」することを得なかった。加齢が必ずしも保守化を招くとは限らない。たとえば、哲学者の内田樹は最近のエッセイにおいてこう述べている。

……経済活動は限度なく加速化してきた。そしていま人々はそれに疲れ始めてきた。しつこいようだが、ことの良し悪しを言っているのではない。疲れたのに良いも悪いもない。そして、「ちょっと足を止めて、一息つかせて欲しい」という気分が全世界的に蔓延してきた。

私がそれをしみじみと感じたのは、昨夏の国会前のSEALDsのデモに参加したときである。国会内では特別委員会が開かれ、法案の強行採決をめぐって怒号が行き交い、殴り合いが演じられていた。一方、国会外では若者たちが「憲法を護れ。立憲政治を守れ」と声を上げていた。
不思議な光景だと思った。
私が知っている戦後の政治文化では、つねに若者が「世の中を一刻も早く、根源的に変えなければいけない」と主張し、老人たちが「そう急ぐな」とたしなめるという対立図式が繰り返されていた。だが、2015年夏の国会では、年老いた政治家たちが「統治の仕組みを一刻も早く、根源的に変えねばならぬ」と金切り声を上げ、若者たちが「もうしばらくはこのままでいいじゃないですか」と変化を押しとどめていた
構図が逆転したのである。

日本はこれからどこへ行くのか (内田樹の研究室)

 

こうした観察を踏まえて、本稿では「ジェンダー・ロール」に注目し、ある世代が加齢とともに保守化するという場合に、その背後に作用している因果と条件について明らかにしていきたい。

供給は多様、だが需要は一様

「子曰、性相近也、習相遠也」
(人間には生まれつきの大差はないが、その後の習慣によって大きな差が生まれるものだ。)
論語』陽貨篇

人間は生まれつき、体力や性別など多くの違いがあるが、その欲望については実は大差がない。生まれたばかりの赤ちゃんは、誰もが一様に同じ乳を求め、睡眠時間を求め、おむつの選好についても、大方一致している。赤ちゃんAによって好ましいものは、他の赤ちゃんB~Zにとっても好ましい。大衆消費社会が成立する所以である。
しかし、成長していくについれて多くの外的な影響を受け、子供たちの選好は多様化していく。ランドセルを買うときは友達と同じものがよいと言っていた子が、通学カバンを買うときには人と重複することを忌み嫌うようになる。

すなわち、人々の成長とともに選好は多様化し、その結果として、人々は相互に異なった経験や思想を持つようになる。このことは、読者諸兄の多くが首肯されることだろう。
しかし、このようにして多様な個性を身につけた人々が、恋愛という人間市場に投げ出され、相互に供給し需要する関係となった途端、ある重大な問題に直面する。それは、人間についての人々の供給は多様だが、需要は一様であるという問題だ。

我々は、例えば緑色が、あるいはブナの木が世界でもっとも 美しい、といった言明にはほとんど合意できない。なぜなら、美的感覚というものはいわば魂の個性であり、何を美とするかという観念は、個々人の多様な経験のもとに構築されているからだ。
しかし、こと性的なことに関しては、我々の選好はかなりの割合で一致する。ある人にとって美しい異性は、他の多くの同性にとっても同じように美しい。だからこそ、AKBやジャニーズといったアイドルが存在できるし、歌舞伎町の風俗店においても、特定の娼婦が多数の男を引きつけることが可能になるのだ。もし性的なものに関する選好が多様であるなら、人はもはや美人である、ブスであるといった言葉を使わなくなっているだろう。

この断絶は、ハイエクの議論によって一部説明できる。ハイエクは、全体主義諸国において常に最悪の野蛮な者が指導者に選ばれた理由について、「人々の意志の知的かつ高度な次元に訴えて全体の合意を得ることは困難だが、低俗で動物的な意志に訴えるなら全体の合意を得ることは飛躍的に容易となるからだ」と説明した。それはドイツにおいてはユダヤ人を諸悪の根源とする「背後の一突き」に代表される言説であり、あるいは連合国への復仇を訴えるナショナリズムでもあった。

とすれば、政治・思想のことや美学、善悪のことでは永遠に合意できない人々の中でも、こと異性のこととなれば容易に合意に達せられるという傾向にも納得がいく。性欲という人間の欲求のなかでもすぐれて動物的な部分において、人々の需要は限りなく一様に近いのだ。

恋愛市場の拡大と競争の長期化

このように多様な供給(個性)を持った人々が、一様である他者の需要(性欲)に合わせて自分を作り変えていく過程こそが、「ジェンダー・ロール」を身につけるということではないだろうか。

大人しくて料理が得意で母性的な、といった女性の一般的なジェンダー・ロールは、一貫して「男性にとって都合の良いように」作られてきたとフェミニストは教えている。ここでは、小生はこの言説を肯定したい。ところがフェミニストの問題意識とは反対に、女性が自由な方法で恋愛「できる」ようになればなるほど、ジェンダー・ロールの圧力は強化される可能性がある。

前提として、現在の恋愛市場は「完全市場」に近づいている。完全市場とは、需要側が購買行動をする時点ですべての商品の情報を把握することができ、いずれも同じコストで取引可能な市場のことだ。文明の発達によって方言が矯正され、多くの人と意思疎通が可能となり、労働の集約化のために都市生活者が急増し、さらにIT革命によってインターネット、スマートフォンが普及したため、誰もが以前と比して圧倒的に多数の異性を比較・検討した上で選択できるようになった。
この文明の発展は、恋愛至上にも商品市場と同様の変化をもたらした。第一に、顕示的消費の必要を満たすため、結婚相手は少なくとも自らの知人たちに対しては自慢できる程度の魅力を備えている必要がある。しかし、今や個人の見栄の張り合いの相手は、SNSによって飛躍的に拡大している。そこで、必然的に要求水準を引き上げる必要が生じる。第二に、都市とインターネットによって誰もが最も魅力的な異性を「見てしまう」ようになったため、現実的に手に入る異性が相対的に劣って見えるようになった。ハーバード・サイモンの限定合理性仮説によれば、人は効用(満足感)の最大化を目指して行動するものの、知的能力の限界があるために最大の効用を与える商品の存在を知ることができないため、実際の消費者行動においては、最大の効用を与える商品ではなくても、一定の水準さえ満たせば購入されることがある。これを「満足化(satisficing)」と呼ぶが、恋愛市場の量的な拡大は、人々に最大の効用を与える異性の存在を知らせてしまうために人々の満足化を妨げ、最大効用をもたらす異性の獲得への報われない努力を勧めてしまう。第三に、早期の結婚と出産を求める共同体的な圧力がかつてなく弱まったため、結婚相手を探す競争からタイムリミットが取り除かれた。

話を家電に置き換えるとわかりやすい。たとえば、家の冷蔵庫が壊れたため、中の肉や野菜が腐敗する前に別の冷蔵庫を入手しなければならないとしよう。この時、1970年代の世界であれば、街の系列店から高い代金でナショナルの冷蔵庫を買うしかなかった。仮に都市や海外により安くて性能の良い冷蔵庫があったとしても、それを手に入れるためにはあまりにも長い時間と費用がかかった。
ところが、今や全国どの地域でも、ヨドバシ・ドット・コムで注文すれば翌日までには好きな冷蔵庫が手に入る。もちろん、LGのような外資の商品も同じ条件で入手できる。さらにカカクコムのような価格比較サイトを利用して、もっとも有利な販売店を簡単に知ることができる。このような市場環境の変化の中で、地方の小規模系列店は次々と店じまいを余儀なくされた。

恋愛市場も類似した状況にある。女性を供給側、男性を需要側と仮定した場合、従来なら「ブスだけど町内には他に女がいないから」「料理が下手だけど、そろそろ誰かと結婚しないと親が承知しないから」などの消極的な理由(満足化)で求婚される可能性は失われ、男女ともに芸能人にも匹敵する魅力を備え、SNS上の他者にも自慢できるような異性をいつまでも探し続けるようになった。

そして人々は恋愛市場に留まり、年老いてもなお恋人探しを継続する。既に若くして結婚した「リア充」への羨望を捨てきれないからである。親の圧力が弱まったとしても、SNSを通じて供給され続ける既婚者層の理想の家庭像は、未婚者に絶え間のない結婚への羨望を植え付ける。多くの場合既婚者は恋愛至上上位の美男美女であるから、中高年齢層の恋愛市場は概して魅力が中位以下の男女によって構成されることになる。

中高年恋愛市場とジェンダー・ロール

中高年齢層において、男女*1が直面する最大の課題は加齢による性的魅力の低下である。恋愛市場における魅力とは性的魅力と経済的魅力の総和であるため、この年齢層における課題は加齢によって減少した性的魅力を、いかに他の魅力によって補うかという一点に収斂される。
ところが、単純な「カオとカネの交換」である若年層の恋愛市場と比べて、中高年齢層の恋愛市場は女性に不利なルールになる。以下のグラフをご覧いただきたい。

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日本の平均初婚年齢である29才とその直前においては、男女の所得の偏りは比較的小さい。若い女性は一般的な男性とは比較にならない性的魅力を誇るため、完全に売り手市場である。しかし、加齢を重ねるにつれて、独身男女の所得較差は開きが大きくなる。高い所得を得ている男性は経済的魅力を活用してより若く美しい女性を購入しようと考えるため、上方婚志向*2を前提とすると、いわゆる「アラサー」の女性たちが同年齢層かつ自分より所得の高い男性を獲得する唯一の方法は、若い女子たちよりも率先して男性の選好に適応することに限られる。それは、「男性にとって都合の良いように」作られたジェンダー・ロールに適応する努力にほかならない。
以下の表は、資生堂の調査による年齢階級別の化粧品購入金額である。化粧品は自然な性的魅力を補完し強化するものであるが、より性的魅力におとる40代以上と比べても「30代シングル」の購入金額が突出していることがわかるだろう。

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出典

伝統的なジェンダー・ロールに適応することを「保守化」と位置づけるなら、加齢とともに保守化が進行することは、中高齢女性の求婚行動の一環として説明することができる。また、男性にとっての「ジェンダー・ロール」とは家事をしない、育児をしないなど消極的かつ負担のない内容にであるから、ジェンダー・ロールに適応しケア労働を積極的に引き受け、かろうじて結婚を勝ち取ったアラサー以上の女性と同じ数だけ、自動的に発生することになるだろう。

ジェンダー・ロール否定の帰結と女性の「自由」

以上の考察を以て、ジェンダー・ロールが加齢と同時に浸透する現象について一定の説明を与えられたものと考える。ではもし、ある種の政治的圧力によってジェンダー・ロール的なものを撤廃し、たとえば義務的に男性にも育児休暇をとらせるなどのスウェーデン的な政策を実行した場合、恋愛市場にいかなるショックが加わるだろうか。

結論から言えば、それは「男女ともに平等に所得を得て結婚し、子供を産むことができる」社会の実現には貢献しないだろう。高い所得を得ている中年以上の男性にとって、ジェンダー・ロールに適応しない(献身的でない)同年代の女性をより若い女性の代わりに選択するメリットは存在しない。ゆえにジェンダー・ロールが禁止されてしまえば、彼らは単により若い女性に食指を伸ばすことになるだろう。そしていったん売れ残ってしまったアラサー以上の女性は結婚を諦めるか、上方婚志向を諦めるかの二択を迫られることになる。だが、後者を選択する女性の数は多くはないだろう。
結果として、ノルウェーのように、貧困国からの若い女性の「輸入」が常態化するはずだ。

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(Think outside the box様の上記記事より引用)

この図でいうnon-residentとは当然外国人のことだからこれは配偶者の輸入を示したものだが、外国人妻の主要な出身国はタイ・フィリピン・ロシアであるという。いずれもノルウェーより所得水準の低い国である。

ここまでの考察を踏まえた上で、自由恋愛主義下で最終的に所帯を持ち、子孫に遺伝子を伝えることができる国民の構成について考えてみよう。女性の最終的な求婚手段であるジェンダー・ロールを容認するのであれば、一定以上の性的魅力を有する女性のほとんどと、少なくとも女性の一般的な水準以上の所得のある男性が最終的に伴侶を見つけることができるだろう。いっぽうでジェンダー・ロールを政治的に規制するなら、性的魅力が中位の女性があらたに結婚できなくなり、その代わりに後進国で高い性的魅力を持つ女性たちが外国人妻として入国することになる。

一方で、そもそも恋愛市場というものが存在して居らず、限られた選択肢と共同体の圧力によってほぼ全国民が結婚を経験するというオルタナティブも存在したはずだ。

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自由恋愛主義とは、結局のところ「強者の自由」でしかなかったのではないだろうか。遺伝的に見れば、恋愛を自由化することによってむしろ淘汰が促進されたことになる。かつてナチスは強制によって優生学を実現しようと試みたが、自由恋愛主義は図らずしてこの残酷な目的を最も効果的に達成したと評価することができる。
性的魅力が中位以下の女性にとっては、加齢とともに男性の恣意に隷属することが求められる自由恋愛主義よりは、ほぼ自動的に婚姻が決定される一方で、意志次第ではジェンダー・ロールに適応しなくても家庭を持つことができる家父長制・共同体主義の近代社会の方が、まだ「自由」といえるのではないだろうか。

 

この記事は、2015年7月の以下の記事を全面的に改稿したものです

serve1another.net

*1:特に女性

*2:女性は自分より社会的地位・所得の低い(=尊敬できない)男性とは結婚しようとしないという傾向

「相対的信仰」の欺瞞とICUにおける学問の理不尽性

Philosophy Theology

※極めてローカルな話題となりますことをお許しください

つい先程まで、シンポジウム「宗教間対話による特別シンポジウム 生きる指針 Hidden Compass of Life」を聴講していた。

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無神論者であるライアン・ワルド氏が欠席されたのが非常に残念であったが、質疑応答も含めて、非常にしっくりこない会であったので書き留めておきたい。

シンポジウムの主な内容

内容としては、いたって普通のものであった。キリスト教、仏教、神道のそれぞれの論者が冗談を交えつつ、各宗教の内容について語った。もし各宗教についての静的な知識を得ることが目的であれば有意義なシンポジウムであっただろう。

「相対的信仰」の出現

特異であったのは、この会では三人の登壇者がみな「信仰は相対的なものである」という命題に同意したということだ。仏教のケネス氏が提起し、他の二名も積極的に同意した説明を拝借すれば

信仰とは、多くの山がある中で、どれかひとつの山を登ると言うことだ。どの山もそれぞれ個性・特徴があるものの、高さは等しく、頂上に達すれば同じような景色が見える。だからこそ相互に認め合うことが可能であるし、また、そうでなければならない。

 ということだ。

ケネス氏は宗教の意義を「救い」に見いだせるとしており、自分がある絶望の中に陥ったとき、周囲を見渡せば様々な宗教という糸が垂らされており、その中でもっとも近くにあるひとつをつかみ、たぐり寄せるようなものだそうだ。

相対的信仰と「死」に対する救い

しかし、宗教を人間の苦しみに対する救いであると捉えたとき、はたして相対的信仰は、多くの人にとって最大の苦痛である「死」*1に対する救いになり得るのだろうか。

もし諸宗教が高さの等しい山々であるとして、そのうちどの山を登っても最終的には同一の真理にたどり着くのだとしたら、人がその中でも特定の山を上るという決断を説明することができない。

他方で、キリスト教を代表する森本あんり教授はキリスト教の殉教者の例を引き合いに出し、「自分の命より大事なものがない生はみじめなものである。人が自らの生より価値があるものを見出した時、その生は尊いものとなるのだ」と発言していた。殉教者らは、例えばローマ帝国の強制を拒否し、生命と引き替えにしてでもキリスト教への信仰を選んだ人々であるが、もし「どの山を登っても同じ」だとすれば、彼らは死を選ぶ必要などなく、むしろ「ローマの神々の山」に乗り換え*2ていればよかったのではないか、ということにならざる得ない。むしろ、乗り換えていれば頂上を目指すこともできたのに、蛮勇に走ったためにその機会を失ったという意味で愚かな行為であったと評価することも可能になるだろう。

このように、ある宗教の体系が絶対的な真理を与えているということを受け入れ、信仰することこそが人に生命より高次の価値を与えるのであり、現代のイスラム過激派の活動からもわかるように、その時人はむしろ積極的に死を選びさえする。

しかし、相対的信仰は異教を否定しない。生や死、善と悪に対する見解を含む教義間の相違について白黒の決着を付けず、異教の存在を容認する。

人が死を肯定するほどの勇気を持てるのは、その宗教の世界観を含めた体系を受容し、それを生命より高次の価値であると認めたときだけだ。ところが、もし異教の存在を容認するとしたら、必然的に生死善悪に関する世界観についても二つの見解が同時に肯定され、存在することになる。すなわち、死の後には裁きの場があり、よき魂のみに永遠の生が与えられるという見解と、死の後には輪廻が待っており、言行の善さに応じて異なった来世が与えられるという見解が併存するのである。

前者の見解を絶対的に信仰している者にとって、後者の見解を同時に肯定すると言うことはありえない。なぜなら、前者の見解の真実性を前提に積み上げてきた自らの生が、後者の見解の方が正しいかも知れないという可能性を導入することによって無意味化を始めるからである*3。これでは死に対する救済にはなり得ない。ゆえに、恐怖に対する救済、なかでも死という恐怖についての救済として宗教を位置づける限りは、生死あるいは善悪に関する矛盾する見解を同時に容認することはできないはずなのだ。

ICUにおける学問の理不尽性

この点について森本教授に質問する機会を得たが、時間のせいもあり散々「What's your point?」と言われたり、ハンドジェスチャーを示されたりなど様々な手段で愚弄され急かされた末、出てきた答えは「君が何を信じて死ぬかということについてなど、私の知ったことではない!」であった。そんなことは訊いていない。

一方で、仏教のケネス氏は「仰るとおり信仰とは絶対的なものである必要があり、実際私にとって仏教は絶対的なものであるが、しかし多くの宗教が存在するこの世界でどう共存できるかと言うことを考えれば、諸宗教の存在は山々のようなものと捉えるほかないのである」という意味の回答をくださった*4

ケネス氏の立場は、ICU的な学問への姿勢と非常に親和的なものであったようにおもう。というのも、思索を開始する以前に「世界は平和であらねばならい(=宗教戦争など起こってはならい)」「人類は平等でなければならい」といった大前提を導入し、それに抵触しない範囲で思索を開始するからだ。その結果現れた結論がいかに矛盾したものであったとしても、「大前提」を疑うことはけっしてしないという思考態度は学内のどこであっても見られるものだ。

その結果が、森本教授のように「他の山」に上ることを拒んで「生命以上の価値」を発見した殉教者たちを称揚しながらも「どの宗教も究極的には同等の価値を持つ」と言ってのけるダブルスタンダード、または二重思考であり、あるいは八代尚宏教授の「女性の社会進出」を無謬の前提とするために上方婚志向を否定し、婚姻率低下の原因を(本来は出生率低下の原因でしかない)「子育て支援の不足」に求め*5、あまつさえ超高水準の離婚率を誇るスウェーデンを称讃する自己矛盾の「フェミニズム経済学」だったのではないだろうか。

*1:正確には「死への予感」

*2:MNP?

*3:仮に「どちらも正しい」という論理的にありえない(1+1が2でかつ3であるような)考え方を試みても、「あの山の方が楽に上れたのではないか。損をしたのではないか。」と囁く心の声を消すことはできないだろう

*4:この解釈は閉会後に複数の学生に話して同意を得たので、おそらく正しい

*5:完結出生児数がほぼ一定である以上、「子育てのしやすさ」はあまり変化していないものと考えられる

自由意思期待説ー創造論と実存主義哲学の統合

Theology Philosophy

この頃、聖書とか神学とかに触れる機会に恵まれている。国際基督教大学という環境に占める部分が大きいのだが、かねてから創造論には十分な説得力がある(ただしその神が聖書の神であるかは留保する)と考えていたので、今までに考えた哲学についての見解との統合を試みた。

前提として、ここでは創造論が真であると仮定したい。宗教ごとに様々な創造論があり、最近ではインテリジェント・デザイン説やサムシング・グレイト説なるものも勃興しつつあるようだが、ここでは単純に「全知全能の創造主="神"が、地球を含む宇宙全体を創造した」という考え方を「創造論」であると定義しよう。小生が創造論を肯定する最大の根拠は、多くの物理定数をはじめとする宇宙、天体間の秩序の巧妙さである。数多くの均衡の元に地球と生命体は存在を許されており、ごくわずかにでも誤差が生じたとしたら間を置かず絶滅するというのだから凄まじい。

意思がなく、乱雑に任せられたものに秩序が宿ることはない。仮に一つの秩序が偶然成立したとしても、その秩序と整合する秩序の体系が都合よく発生するということは通常考えられない。それゆえ、宇宙全体は人類のそれと近似した意識を持った主体によって、意図的に創造されたという仮説は十分検証に値する。

本稿の後半部分では、肉体とは別個の存在である「魂」とその個別性が前提とされ、肉体的な必要以外に魂の欲求を充足する活動を「自己実現」と位置づけている。魂についての過去の考察が流用されているため、必要に応じて以下を参照してほしい。

支払いの思惟喚起作用

少し唐突になるが、小生はかねてより「支払いの思惟喚起作用」なる概念を暖めてきた。言ってしまえばごく自然なことなのだが、人の活動は何かを支払う活動と、受け取る活動に二分することができる。たとえば学校や職場に通ったり、そこで労働に従事するのは支払いである。また、ワインセラーから白ワインを取り出すのも、扇風機のスイッチを付けに行くのも支払いである。体内からエネルギーが流出してゆく。一方で、ワインを飲み干す喉のや胃の働きや、落ち着いた場所で鑑賞するテレビ、扇風機から流れ出る涼風に当たることは受け取りであるといえる。食事や情報など、何らかのエネルギーが流入してくる。また、死という現象は、体内の器官が衰弱したり、怪我やウイルスの活動によって過剰なエネルギーが体内から流出し、生命の維持にどうしても必要な毎秒ごとの支払いが維持できなくなる現象として捉えることができる。ソビエト連邦の計画生産体制と同様に、体内の器官は相互に連携しておりどこか一カ所が故障すると全体が機能しなくなるように設計されているので、体内の容積のごくごく一部を占める箇所における集中的な支払いの結果、生命機能が失われることはよくある。
「支払いの思惟喚起作用」とは、人間によって行われる支払いの大部分が苦痛として意識に上るため、ほとんど必ず意図的・打算的なものとなり、その支払いの対価が十分なものであるかどうか、あるいはその支払いをいかに能率的にこなすかについての合理的な思考、さらには、そうした支払いに充ち満ちた人生の存在意義についての反省を促すきっかけになるという作用をまとめたものだ。
自分や誰かのために料理をするとき、人はそれをもっとも迅速かつ安価に済ませようとするし、面倒だと感じるので、その不快感を補償するだけの対価を何らかの形で受け取らずにはいられない。しかし、母が調理してくれた食事を食べるとき、多くの場合は、それがいかに手間であったか、どんな点が工夫されているかなどといった考えは起こりがたい。非常に道徳的な人であっても、調理をした本人と同等以上の思惟をすることはあり得ない。同じように、YouTubeに投稿する番組を作る人は装飾から音響までの様々な工夫を凝らし、動画編集に要した苦労に見合うだけの広告収益や視聴者数、賞賛のコメントが得られるかどうかを作業をしている間中気にかけるものだが、視聴者はまったく頭を使わないし、使う必要もない。
したがって、もし人が思考によって賢明になり、知識に基づいた思考によって新たな発明をするのであれば、苦労が多く、支払いに満たされた生涯を送っている人ほど、賢明さを手に入れる機会は多いといえるだろう。

「創造」という支払い

さて、支出の思惟喚起作用を踏まえた上で創造という行為を考えると、これが非常に莫大な支払いに他ならないことがすぐにわかる。宇宙はビッグバンの瞬間から膨張を続けてきたものと考えられるが、エネルギー保存の法則を考慮すると、ビッグバンのエネルギーは現在全宇宙に存在するエネルギーと等価であるということになる。しかも、膨張の最中に地球を始めとする多くの天体が形成され、当初の熱と速度のエネルギーは多くの部分が物質に変換されてしまっているというのに、まだ膨張が継続しているという。これほどにエネルギーを要する活動が「支払い」にあたらないはずがない。もし支払いであれば、そこには行為者による意思や目的が存在しているはずであるから、「神様は気まぐれで宇宙を作った」という見解は退けられるべきだろう。
このように創造は何らかの目的を伴ったものであることが考えられるが、その目的とは一体どこにあるのだろうか。さて、支払い行為は一般的に苦痛であるため、人は最小の支払いで最大の対価、すなわち目的を達成しようと工夫を重ねる。人間の場合は知識や能力の制約から十分かつ効果的な工夫ができず、多くの時間と費用を浪費することがあるが、創造主においてはそうした制約は存在しない。つまり、創造主の目的をもっとも効果的に達成するために最適な形質を人類や宇宙のあらゆる存在に与えることができる。
とすれば、人類が存在する意義は、人類が現実に存在している形質から導き出すことができるはずだ。そして、我々は意識していてもそうでなくとも、現在行っていることを行っているまさにそのことによって、創造主の目的を図らずも達成しつつあるということになる。もしそうでないなら、創造主は直ちに我々や世界のあり方を変更することができるし、場合によっては我々が察知できないような方法で、既にそうなっているかも知れないからだ。

人類の形質について

肝心の人類であるが、一般論として、特定の単一の目的を全体で達成するようにはできていないように思われる。たとえば、創造主の目的がピラミッドを建設することにあるのであれば、我々はピラミッドを建設する以外のことにはおよそ興味も抱かないような心理状態に絶えず置かれていて、エネルギーさえもちょうどコンクリートを溶かすことでエネルギーを得る害虫のように、レンガや粘土を消化してピラミッドの建設に費やすエネルギーを作り出せるような酵素を備えていることになっていただろう。しかし現実には、新国立競技場ひとつ建設するにしても様々な意見の対立や争いが発生し、どんなに高名なモニュメントにもその価値を認める人と認めない人がおり、パルミラ神殿さえも最近、人類の意思によって破壊されるに至った。対立は人類の存在と切り離すことができない要素であるといえる。
また、無知も主要な要素である。歴史は繰り返すといわれるが、繰り返すのは学習能力が不足しているからに他ならない。これは誰かを非難する意味ではなく、もし創造主が人類に賢明であり、失敗を繰り返さず成功を更に高めていくことを期待しているのであれば、ただちに我々の記憶力は数百倍にも拡張され、飛躍的にすぐれた記憶装置を誰かが発明するように仕向けられているはずである。しかし、実際にはそうなっておらず、無知や欠乏はそのまま放置され、意思と勇気のある人が解決するのを待つばかりとなっている。
次に、飽和の性質を有していることも見逃すわけにはいけない。人類は多層にわたる欲求を抱いており、ひとつが充足されれば次の欠乏に意識が行くようになっている。だから、五〇〇年前と比べれば誰もが飛躍的に豊かな生活をしていると考えられるにも関わらず、格差を糾弾する声はやむことがない。嫉妬や怨嗟が渦巻き、生活に余裕のある人は顕示的消費に精を出す。何か一定の生活水準に到達すれば誰もが満足して活動を停止するということは、どの国でも発生しそうにない。
上のような人類の一般的な性質を踏まえれば、教会でもたまに教えられることがあり、かつ通俗的な場所ではかなりの影響力を持っている「人は幸せになるために生まれた」あるいは「人は永遠の命を得るために生まれた」といった主張は、大きな誤りであることがわかる。もしそうであれば、創造主は人から死ぬという機能を奪い去ったはずであるし、どんな現象も幸福と感じられるような心理状態に置いたはずだからだ。

自己実現は創造主の期待たりうるか

以上の議論を踏まえれば、人類が何らかの単一の状態や目標を達成するための手段として創造されたわけではないことは明らかになるものの、それでは人類の混乱こそが創造主の目的であったということになる。
もし混乱そのものが目的であり、それを観察して楽しむことが創造主の意図するところであり、単なる虚構に過ぎない人類世界を創造し、同じようなことが繰り返される歴史を展開させて遊んでいるにすぎないとしたら、それはちょうどある人間がコンピュータゲームにのめり込み、虚構の世界に生きがいを求めてキーボードを叩き続けている光景と相似形である。創造主ともあられるお方が、これほど非生産的な快楽に汲々としているものだろうか。先述のように創造とは莫大な支払いであると考えられるが、それほどまでに大きな支払いを非生産的なゲームのために行ったとは考えにくい。
とすれば、我々はただ混乱し続けることではなく、混乱と無知の中に置かれながらも、そこで何かを発見し、自ら設定する目的に従属して生きることを期待されているのではないか。人をいったん自由という刑に処しておき、その中から誰かが這い上がり、強い意志によって外界の混乱を退け、個々人の創造を達成することを期待しているのではないか。
ここで、このような反論が聞かれるかも知れない。もし人々の自己実現に創造主が期待しているのならば、自己実現が不可能な状況に置かれている人は存在していないのではないか。我々は自己実現以前に労働によって糊口の道を得なければいけないが、地球の反対側では餓死が未だに一般的である。自己実現への期待があるのならば、創造主は地上からあらゆる欠乏を既に取り除いているはずではないか。
これは非常に強力な反論である。自己実現とその結果こそが創造主の所望するものであるなら、人類が自動的に豊かになり、紀元前の昔より誰もが理想を掲げ、自己実現の欲求を充足させようとしているような、そういう世界を設計していただろう。
ここで、この仮説は修正を余儀なくされる。創造主の目的は人類全員の自己実現の結果そのものには存在しないのではないか。というのも、人々の自己実現は必ずしも他者のそれと調和しない。ヒトラー自己実現チャーチル自己実現ではあり得ないし、安倍晋三自己実現志位和夫自己実現ではあり得ないだろう。自己実現が個々人の内面にとどまらず、外界を通して行われる以上、そこには常に対立の可能性が用意されており、しかも人々の数が増え、自由になればなるほどその対立は頻発し、先鋭化するのである。さらに、達成された自己実現が誰かを不幸にしたり、誰かの価値観でいえば堕落や罪悪以外の何ものでもないということは珍しくない。世界がこのような状態にあるということは、世界人口全員の同時自己実現そのものは創造主の希望するところではない、ということを逆説的に示している。

意思への期待

結果としての自己実現が失敗した場合でも、そこに注がれた意思は記憶ないしは歴史として保存すことができる。仮にいったんは実現した場合でも数百年、数千年後には跡形もなくその痕跡が消滅し、忘却されていることは少なくない。意思の強さをはかる尺度として自己実現の成否は有用かもしれないが、遺伝子をはじめとする環境や自己実現の内容そのものによって達成の難易度が異なる以上、その有用性は限定的だろう。
達成される結果ではなく、自己実現を追求する「意思」に価値があると考えるならば、人類の様々な性質をも説明することができる。たとえば、人が様々な欲望によって常に何かの支払いに従事せざるを得ないことも、人に挑戦と思惟をもたらす目的があるのではないか。外界の様々な人や現象に触れることで、人は自らの興味がどこに在るか、すなわち自己実現の内容を決定する自らの魂の性質を知ることができる。それは外界に触れることによってしか知ることができないが、外界に向かうことは支払いであるため、何らかの動機、欲望がなければ、人はドアを開けることがなく、したがって自らの魂について知識を得ることもできない。様々な労苦を通して自らの魂についての知識を得るためにこそ、欲望と欠乏が存在するのではないか。
また、人々の価値観が異なり、どんな意見にも必ず対立する者が現れる。ゆえに、どんな自己実現もパレート改善*1的なものにならないことも、常にある人にとって不都合、困難な状況をもたらすことで、それを(主観的に)「解決する」という形で自己を発見し、さらにはそれを通して自己実現を図る機会を与えるためではないか。
繰り返しになるが、もし誰かの自己実現こそが創造主の目的であるならば、人はより有能で、まるで創造主のように何でも達成できる存在として創造されていたはずだ。

こうしてみると、かのキリスト者内村鑑三の説も非常に深みを増してくる。内村はあくまで自己実現の結果とその持続を前提としていたが、それが一部の恵まれた人にしか可能でないということを理解していた。そこで、社会のどんな人物にでも達成できる"後世への最大遺物"として、数々の困難を意思によって貫徹する「勇敢なる生涯」を提唱した。個々人の生の勇敢さはいずれ忘却される運命にあるため「遺物」たり得ないとの批判も可能だが、記憶される範囲において誰かを勇気づけることで、またその人がさらに次の世代を勇気づけるという乗数効果が期待できる点を踏まえれば、ある人の意思の強さは集合的な形で持続し続けると捉えることも可能だろう。。

たびたびこういうような考えは起りませぬか。もし私に家族の関係がなかったならば私にも大事業ができたであろう、あるいはもし私に金があって大学を卒業し欧米へ行って知識を磨いてきたならば私にも大事業ができたであろう、もし私に良い友人があったならば大事業ができたであろう、こういう考えは人々に実際起る考えであります。
それゆえにわれわれがこの考えをもってみますと、われわれに邪魔のあるのはもっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほどわれわれの事業ができる。勇ましい生涯と事業を後世に遺すことができる。とにかく反対があればあるほど面白い。
われわれに友達がいない、われわれに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。われわれが神の恩恵を享け、われわれの信仰によってこれらの不足に打ち勝つことができれば、われわれは非常な事業を遺すものである。われわれが熱心をもってこれに勝てば勝つほど、後世への遺物が大きくなる。

 

後世への最大遺物・デンマルク国の話 (岩波文庫)

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ここからは推論というより推測だが、意思という価値を通して、以下のような選別があるかもしれないのでは、と思うことがある。

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。

「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。
『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
主人は、『敵の仕業だ』と言った。
そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。
『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう』

 

新約聖書〈1〉マルコによる福音書・マタイによる福音書

新約聖書〈1〉マルコによる福音書・マタイによる福音書

 

 


つまり、創造主は人々を特定の目的に従事する機会としてではなく、意思と自由を持った存在として創造した上で、それぞれがその自由に値するものであるか、あるいはそうでないかということを、数十年の時間を与えた上で、全知全能の立場から観察しているのではないだろうか。
それらは全て最終的に「刈り取られ」ることは間違いのないことだ。その先のことを我々は観察する手段を持たないが、もし意思そのものを試すために生命が与えられたのだとすれば、その結果に応じて何らかの選別を受けるということは十分考えられることではあるまいか。

 

*1:ここでは「誰一人不幸な人・反対する人を生み出さなず世界を幸せにすること」