Serve One Another

天網恢恢疎而不漏

他人の生い立ちは圧縮ファイル

私は,他者との関わりが,極めて希薄である。

今に始まった事ではない。小学校高学年のあたりから,そうなのである。思えば,小学校5年生以降,誰かを遊びに(「会わないか」,と)誘ったことは,数えるほどしかない。

 

・小学校5年頃,板橋区成増在住の友人を,テレビゲームをしないかと誘った

・中学校2年頃,千葉県松戸市在住の友人ら2人を,足かけ3回ほど,カラオケに行かないかと誘った

・中学校3年頃,豊島区目白在住の友人ら5人を,カラオケに行かないかと誘った

・高等学校3年頃,高知県窪川町在住の友人ら2人を,カラオケに行かないかと誘った

・大学1年頃,三鷹市大澤在住の友人を,遊園地に行かないかと誘った

 

……

自分でも冗談のようにしか思えないが,以上が,ここ11年で他人を遊びに誘った行為の,ほとんど全てだと思う。

もちろん,これら以外にも,遊びに行ったこと,ご飯を一緒にしたことは,多々あった。それらは,ほとんど全部,相手から誘われて,断る理由がなかったので,出向いていったものである。

書き起こしてみると,社会通念上客観的に見て,相当に少ないことがわかる。

いや,実際は,他人に同じような質問をしたことがないから,社会通念では何が普通なのか,などわからない。

しかし,これが一般的に考えられる水準よりも,著しく少ないことぐらいは想像がつく。

 

そうすると,必然的に,おまえは,他人に興味がない冷徹な人間なのか,という趣旨のツッコミが入る気がする。

しかし,それはそれで違う。別にそういう事ではないというか。

他人の身の上話を聞くことは,基本的には,大好きである。本人が話したがっているのに,聞かないのは失礼だ,という考え方もある。

だから基本的には聞く。理解はする。しかし,真に寄り添えているかというと,それは全然,そうではないのだ。欺瞞的と言われても仕方がないぐらいである。

というのも,他人の全体験は,基本的に,私のそれとまったく異なる,そのひとに所与の時代背景や感受性を前提とされている。

その全体を,かぎられた時間(平均20分前後)で,かいつまんで聞かされることしか,私には,できない。

データとしては,デコーダがないから回答できない。そこで,文字コードぐらいは合致している別の既存デコーダをかろうじて適用し,データの破損に苦しみながら,限られた知識と能力で,最大限の理解を試みる。

しかし,どうしても,完全には理解することができない。そして,完全でない理解のしかたを前提として,その問題について意見すること自体が,いわゆる「失礼」となる。

そうすると,他人の身の上話を聞いた,大いに同情したはいいものの,何もリアクションを取ることができない,という状態に追い込まれるのだ。

それを,他人は「話を聞いていない」と解釈する。

ときには,個人個人の体験や思念とは別の問題として,抽象的な意味で,問題そのものを取り扱うことができる,思考力の高いひとも,いる。

そうした人と,社会問題(とされている)ことについて議論するのは,無上の喜びである。

しかし,話す相手,一緒に働く相手を選べないのが,人生なのだ*1

 

*1:地位確認請求訴訟を起こされた社長様には是非よく考えてもらいたい問題である

現実を現実として受け止める「ちから」

……上の記事を,読んだ。

お世話になっている弁護士屋さんが書いた記事だから読んだのだが,刮目すべきは,次の部分だろう。

私も、かつてある事案で、同様の言い訳を会社からされ、相手に弁護士がついてもその言い分を崩さなかったので、「このままでは差し押さえしますよ」と何度も警告をしたことがあります。ところが、それでも振り込んでこなかったので、仕方なく、あくまでも仕方なく、会社の取引先の債権を差し押さえたことがあります。

実は、賃金債権は証拠がしっかりあれば、いきなり差し押さえができるのですが、意外と知られてないのか、差し押さえられるまでは余裕綽々だった会社も、その代理人も、すぐに泣きを入れてきました。

 ……

弁護士とは思えないレベルの低さである。本当に差し押さえがおこり,赤っ恥をかいて信用を失うまで(客観的には,あそこは倒産したのか,という認識をされるだろう),

労働者の賃金なんか,払わなければそのうち諦める,踏み倒せる,差し押さえなんか起こりっこない(実績のある佐々木亮先生に警告されても)という「現実」に,社長も弁護士屋も,最後まで,しがみついたのである。

タイトルのとおり,「現実を現実として受け止めるちから」には,生来の優劣があるのかもしれない*1

現実ではないもの,事実ではないものを,あくまでも真実であると強弁するタイプのひとは,あまりにも多い。

私自身,以前働いた会社で,こんなことがあった。

社内にいたある弁護士に,子会社の登記を依頼した。そのひとは,快く引き受けてくれた。しかし数ヶ月後,「明日法務局に行く」とまで言っていたのに,なにひとつ,作業をしていなかったことがわかった。

そこで本人を問い詰めてみると,

「私は登記専門官ではない」「人事部長としての仕事*2もあったので忙しかった」

といった弁明に終始し,結局,一切の責任を認めなかったのである。しまいには,当初,登記のタスクを引き受けたことさえ否定し始めた。証拠が残っているのに……

この会社では,このようなケースが,とことん多発した。

都合の悪い現実はとことん否認する。100回否認すれば証拠自体がなくなる。そんな宗教を見ているかのようだった。悪夢だ。

私にとって,現実は,「認識」するものだ。しかし,かれらは,現実に対して,認否を表明できると信じているのだ!

このようなケースは,珍しかったのだろうか?

と思いきや,労働運動にかかわるようになり,様々なケースを,現場でも書面でも見るようになると,むしろ,これが普通なのだと思い知らされた。

採用面接時に,「今の仕事を辞めてきてもらうわけですから,2ヶ月でごめんなさいってことになると,大変なことになってしまいますから。それはありませんよ」とまで言ってのけた会社が,あっさりと,(具体的な非違行為をしたこともない)従業員に,雇止め解雇を通告する。

こうした会社に,団体交渉で不当性を指摘してみると,弁護士共々開き直るケースが,あまりにもおおい。

右の企業では,弁護士が,

「通常な成人男子の判断力があれば,面接時になんと言われようと,(「更新しない場合もある」と記載されている)契約書が絶対優先だと言うことはわかるだろう」

と迫った。

……?

通常な成人男子の感覚では,ない。

しかし,私が直接関与しないケースでも,こうしたパターンが,あまりにも多い。

そのうえ恐ろしいのは,このようなことに,明確なノーを突きつけた場合,遠からず組織から排除されるので,多くの場合,現実ではないものに拘泥する組織には,それを支持する大政翼賛会のようなスタッフが集まり,残るのである。

だから,以前話題になった某引越し会社のようなケースでも,会社があきらかに不当なことをしているのに,内部から声が上がらない。客観的に見れば順応する余地などないようなものに,順応してしまう。

結局,個人的には,ここ1年の間に,このような人々に,現実はこれです,証拠もありますと迫っても,まったく意味がないどころか,非現実主義の人間同士で団結して,反撃してくるということがわかった。

今後はなるべく,現実が現実であるということがわかる,冷静な人々を相手にしていきたいものである。また,私自身が「アッチ側」に回らないよう,気をつけなければなるまい。

 

*1:高い方がいい,高い方が成功するという趣旨ではない

*2:本人が,高い報酬と引換に,すすんで引き受けたものである

「危険の提供」としての団体行動権

さて,先般述べた事情によって労働運動に(やむなく)関係する事になったが,これには気付かされる所が多かった。

危険の提供

労働組合は一般に,団体行動権というものを憲法上保証されている。これによって,社前集会(会社の前でナゾの集会が開かれること)やら要請行動(組合の役員が会社に面会を要求し,書状を手渡すこと)を行なうことが法律上可能となっているのだが,民事刑事の両面で免責が得られるなど特典が多く,一見して不合理なほど優遇されている*1

当初,これらの特典は大きすぎる,労働側に有利に過ぎるのではないかと考えていた。しかし,今にしてようやくその意義がわかった。「危険の提供」である。

危険の提供とは,要するに,妥協しなければ○○(という危険)が発生する(かも知れない)ので,早々に妥結しなければならない,と相手方に思わせる作用のことである。労使紛争において,会社がこれを提供することはあまりにも容易である。副業が解禁され始めたのはごく最近のことであるから,多くの労働者は現に就労している企業に生計を依存しているし,それゆえ,解雇されるとか解雇を仄めかされるとかで十分に危険を感ずるし,資本だって団結しているのであるから同業者に悪口を言いふらして再就職を妨げることもできるし,そうすると家族などいれば尚更,破産まっしぐらなのである。

他方で,労働者の側から使用者に,同種の危険を提供することは困難極まる。無論相当の閑人であれば社長をつけ回したり,個人的な活動として街頭宣伝をしたり,色々の手段が打てるかも知れないが,労働者は生活があるから,日中の主たる時間帯はどうしても労働に充てねばならぬ。そうすると,ストーカー事件のような手段でこの危険を提供することも容易ではないし,弁護士や探偵,便利屋をけしかけてこれを代行させるような資力も,通常は持ち合わせていないのである。

そこで登場する画期的な仕組みが,この労働組合が持つ「団体行動権」である。使用者にとって現実の危険を感じさせるような行動を,労働者個人としてではなく組合として行なうならば,本人が無資力でも組合員の積立金から弁護士を立てることもできるし,時間を割ける者がよってたかって,代わりに街頭宣伝をすることもできる。

そうすると,使用者といえども,弁護士をドミノ宜しくいたずらに並べ立て,時間を稼げば労働者は資金が払底し,万事よろしく収まろう,という限りではなくなってくる。この段に至って初めて,不誠実な使用者も改心して交渉のテーブルに着くことになる。

傲慢さ

しかし,上に述べたような団体行動権とか,使用者がけしかける弁護士とかいうのは,そもそも,両者に誠実な話し合いの姿勢があれば必要のないものである。

労働契約だって1つの民事上の契約なのだから,両者にとって,契約前に期待したものとその現実の結果に齟齬が生じることは考えうる。その時,この契約を解除したいと考えるのは自然である。

問題はその手段である。ふつう,労働契約は両者の話し合い(採用面接,試験など)の結果成立させられるが,これを解除するときだけは,話し合いによらず一方的に解除しようと試みる使用者が多い。

その手段はIBMによって知られたロックアウト解雇,事業所そのものを閉鎖するもの,社員を唐突に犯罪者呼ばわりするもの等々実に多彩であるが,通底しているのは使用者の「傲慢さ」である。

社長をやっていると,意のままになるもののほうが,そうでないものよりも圧倒的に多い。赤字会社の社長でも,働く相手(取引先,労働者)を選ぶことぐらいはできる。10年,20年ばかりもそれを続けていれば,ローマ帝国カエサルよろしく,自分の威力を以てすれば,労働者ひとり思うがママに処分することなど,容易いと信じてしまうのであろうし,労働組合の介入がなければ,実際これはあっけなく処分されてしまうものであるから,その前例にも事欠かないのかも分からない。

ところが,労働組合がここに入り込むと,労働者はあっけなく処分される羽目を免れるし,会社が誠実な態度で団体交渉に応じないときは,使用者がそうしたように,労働者も会社に対して,じつに立派な危険を提供できる。ここにおいて,はじめて労使は対等の立場に置かれるのである。

浪費

ところで,つくづく思うことであるが,このような労使紛争は盛大な無駄であり,資源の重大な浪費である。組合員だってみな閑ではないのだから,争議をするよりもどこかで働いて稼ぎを得た方が本来的であるし,使用者も,採用時と同様によく話し合いをして,いい分を聞いてやって因果を含めれば済むことを,なまじ力の論理で無理に片付けようとするから労働組合と正面衝突をする羽目になる。

使用者にとっても,争議の費用は安くない。使用者は大体,エラい自分には快適な時間を過ごす神聖な権利があるから,いち労働者ごときにこれを妨げられてたまるかと考えているようだ。そこで弁護士屋を傭い,労働組合関係の諸問題を一任させるのであるが,弁護士屋も商売なので,その多くは,使用者から名目を問わずカネを徴収することを第一に考えている。

そこでもっともらしい理由をつけてタイムチャージを取ったり,不当労働行為の救済申し立てをされることを理解した上で不当労働行為をやったり,これまた手段を選ばずに集金の名目を作り立てる。

労働紛争そのものに勝てればまだ回収できるコストかも知れないが,勝てなかった日には,これはもう目も当てられない。勝ったとしても,組合が入れば大体過去のサービス残業も追及されることになるから,解雇には成功したものの残業代は沢山支払うことになるようなケースも多い。

そうして,使用者の傲慢——朕はエラいのであるから,汝労働者は黙して朕の処断に従えという傲慢は,弁護士屋だけがトクをする形で結実する。株主はいい迷惑である。単にカネを出してやっているだけなのに,たまに争議に巻き込まれるし,そうでなくても,社長が偉ぶるためだけに出資金を浪費されるからだ。

要するに,誠実な態度が何よりも重要だし,弁護士屋以外の全員にとって,それが最も利益のある道なのである。誠実さとは,話を聞き,相手の立場になるべく理解を示し,自らの利害や必要もきちんと説明した上で,妥協の可能性を探ることである。

私は中学校までにこれを学んだが,何ゆえか,これが出来ない社長さまが少なくない。

*1:この辺の法律論は専門外なので,各自調べてもらいたい

誰がこんな奴にごめんなさいするか

3月初頭のことである。

世間が花見やら桃の節句やらで騒々しい中,私は絶望の日々を送っていた。

上司や同僚が(特に理由がないのに)引き起こした様々な問題。社内政治。突きつけられる無理難題。

私はすっかり打ちのめされ,しかし投げ出すわけには行かないと日々労働に勤しんでいた。

そんなある日,私はオフィスのPCで,唐突にも「精神病院」とタイプして検索を始めていた。表示された神田のメンタルクリニックは,予約不要であることを特長としていた。

私はすぐさま,この少し遠くのメンタルクリニックに飛びつくことにした。このときは,名前も顔も知らない病院の受付嬢に電話して姓名を明かし,予約をする元気すらなかったのである。

はじめてのメンタルクリニック

会議を乗り越え,16時過ぎ,ようやく病院に滑り込んだ。広告どおり,予約の有無さえ聞かずに迎えてくれた。

待合室であからさまにメンヘラといった風体の女性を見つけ,けったいなことだと思いかけたが,すぐに私も同類であることを思いだし,口をつぐんだ。

待合室で10分弱待つ間にも,会社からはSlackで矢のように通知が届いていた。自分にとって都合の良い事実しか認識せず,自分以外の誰にも同情しない,変わり者のAIのような者が多かった。この場合において,事実を摘示すること以上の悪あがきはなかったのである。

——(同じ「現実歪曲フィールド」なら,Appleのように素晴らしいフィールドで踊りたかったな)

そんな思案をしたものである。

上司からの畳みかけるようなSlackに翻弄されながら,片翼をもがれて墜落する零戦のようなありさまで,私は診察室に逃げ込んだ。

私は先生に状況を説明しようとしたが,学徒時代偏差値60未満をとったことがない国語力がウソのように,何も言葉が出て来なかった。

「上司がすべてを私のせいにして,役員もそれを信じ込んで,面と向かってや電話ではなく,チャットツールで私を追い詰めるんです」

こう表現するのが精一杯だった。先生は休職したいかと聞いたが,私は生活があると答えた。すると先生は,それでは貴方が強くなるしかない,私は貴方を強くすることはできないが,それを助けることはできると言いながら,3種類ほどの知らない薬が記された処方箋を作り始めた。

病院を出たときも,上司はひっきりなしに私にSlackを寄越していた。私は爆撃の音に耳を塞ぎながら防空壕を目指す人のように,薬局に向かった。薬局では,早く薬がほしいのに局員が「お薬手帳」の話をしきりにするので,大変苛立ったことを覚えている。

誰がこんな奴にごめんなさいするか

薬を手に入れた私は,まだ知らないその効能を楽しみとし,他方では恐れつつ,労働に戻るため銀座線のホームを目指した。せっかく都心に越したのに,三越前にも行ったことがなかったなと,昔のことのように回想していた。

新橋方面に向かう列車を待っていると,後ろで子供らの争う声がした。小学校にちょうど上がったぐらいの男の子だった。それぞれ母親に具されており,何かもめ事をしたようで,片方がもう片方に謝罪するような流れになっていた。

すると,まさに謝罪をするところだった方の男の子が,

「誰が,こんな奴に,ごめんなさい,するか〜!!」

と,大声を上げたのである。

私はハッとした。

仕事で追い詰められると,自然と,そこで発生するトラブルがすべて自分のせいであるかのような錯覚に陥ることになる。また,他人をそういう状態に追い込むことを得意としている人種も存在する。

社会的な力関係の中で,理不尽が理不尽であると指摘するのは難しい。そして指摘をしないうちに,それが理不尽であるという事さえも,忘却させられてしまうのだ。

声を上げた男の子は,必死に告発していた。大人の言語力には,決して敵わなかったに違いない。親や先生がこぞって「君は間違っている」といえば,旧ソ連における見せしめ裁判よろしく,結局はすべての容疑を認めざるを得ないだろう。

しかし,まだ尽くされていない弁明がある。判事らの知らない真実がある。仮に言葉にできなかったとしても,ある。

そんな状況があり得ることを,彼は思い出させてくれた。

強くなること

それから私は,薬効もあいまって少しだけ強くなった。

昔から平坦な人生ではなかったが,私が積極的に社会を破壊する側に回ろうとしたり,誰かを蹴落として成功する目的でことに臨んだことはなかった。

それでも不幸なすれ違いから,人間関係がうまく行かなくなったことはあった。容姿や性別はじめ色々な原因による差別もあったと思う。

しかし基本的には,その場その場でプライドを持って,能力的に合理的に責任を果たそうと努力してきたつもりだ。

……それなのに,全部が私の責任。そんなことは,きっとあり得ない。

昔からの生き方を思い出すことで,私は自分を責めるのを止めることができた。そのために,少しだけ強くなれたのである。

桜も散り始めたころ,会社は私を解雇するとかしないとか,そういう事を仄めかし始めた。退くか戦うか,決断は迫っていた。

私は少し迷ったが,後者を選んだ。入社以来の忠誠心や責任感にウソはなかったし,そのことは労働時間はじめ,各証拠がハッキリと示していた。むしろ,事実を事実として認識せず,自分にとって都合の悪いこと,イヤなことは1ミリも認めないという人々が一致団結して,私の行く手を阻んだというのが私の見解であった。類は友を呼ぶのだ。

私が示した意思に,会社は私に色々な疑惑をぶつけてみることや,私の過去の言動にあれこれと第二の解釈を加えることによって応じた。ここで降りかかった火の粉との戦いは,じつは今も続いている(いつか,状況が許す限り詳細に紹介したい)。

しかし私は怯まなかったし,恐れることもなかった。私は法律を遵守し,誠意を持って他人と接していた。そんな私が陥れられるぐらいなら,この社会など必要ない。社会が正直に生きる人々にとって希望のある場所であり,必要であることを証明するために,私は戦うのである。

無限の傲慢と欲望

月に300時間以上働いていた頃はじめ,今でも,東京にいる限りいつでも思い至ることがある。

東京では,無限の欲望と傲慢さが全面的に推奨されているという事実だ。

私はビジネスを興したこともあったし,働くのは好きだった(今も好きだ)。しかし,その主たる目的は六本木ヒルズに住むことや銀座で回らない寿司をパクつくことではなく,私の着想と能力の実用的であることを示し,幾許かの糧を得ることであった。

しかしここでは,六本木ヒルズに住んだり,雅叙園の近くに居を構えたりする目的を有していることを前提に,話が進んでいる。私は仕事上の利便から麻布区に住んで半年と少しになるが,いよいよ一種の困惑を覚え,不快で震えが止まらないほどにまでなってきた。

清潔であることや健康であることは,重要である。しかし,反社会的勢力すれすれの怪しい商売人や,政府と近いと称するナゾの人物,相場師や芸能人,カネのためなら何でもする種類の専門家,これらとつるんでまで「上」を目指し交際に励むのは,もはや尋常なことではないと思った。

私はかりに一時であっても,このような世界に接近してしまったことを,自ら深く恥じている。その結果として,私が巻き込まれたトラブルは相当始末の悪い展開になりつつあるが,いわば「自己責任」である。

自らのワガママ,欲望,見栄のためならば手段を選ばず,悪魔にも魂を売る。

そのような勢力と関与した時点,相手がそうだと見抜けなかった時点で,もうアウトなのだ。これが成人の,「自己責任」という考え方である。

今後のために

私は,今後改めて仕事を選ぶときは,なるべく誠意を持って仕事に臨めるような種類のそれを選び取ろうと思う。

健康を犠牲にすれば幾らかの快楽が得られるように,良心を犠牲にすれば,やはり幾らかの富を得ることができる。しかし,心の平穏だけは,どんどん遠ざかっていく。

このブログのサブタイ「天網恢恢疎而不漏」は,この原則をいつでも思い出せるように設けている*1

世の中の人々の大部分は,良心に従って働き,それで家族を養えて少し剰るぐらいの金銭を得られればいいと思っている。細かい点で意見は違っても,私の仲間であると信じている。

それ以上の高みを目指すのは自由だが,その目的を達成するために他人を陥れたり,嘘を並べたり,その他隠れて社会に迷惑をかける人間は,その肩書を問わず「迷惑」だ。その嘘は必ず暴かれ,その時,本当の意味で助けてくれる人はいない。

私はトラブルにこそ巻き込まれたが,助けてくれる人も,励ましてくれる人もいた。一部のひとを除いて,明確な恩返しができていなかったり,私の方からは絶対に裏切らないという事を証明できていなかったりする事だけが心残りだ。

同時に,私がこのような考えに持てるように導いてくれた,教養と良識のある両親に感謝した。無知の深淵を覗き込むたびに,あちらの側には旅立ちたくないと思う。

そこでは常に,他人に対する相対的優位だけが価値の証明とされているからだ。

 

*1:高校2年生の頃,池田晶子先生の書で最初に学んだ言葉である

職場の「インフルエンサー」と法治主義

ここのところ、個人的な事情から、労働問題について種々詳しく調査している。その結果、労働問題発生の原因と、自分自身の生き方について、多少の発見があったのでまとめてみたい。

労働問題は面白い

労働問題は「面白い」。なぜならば、契約の当事者が期待した利得に対して、実際に感受された利得が、著しく劣っていた結果として出現するためだ。

ある会社に雇傭されるということは、使用者側にとっては日本の労働法を前提とした様々なリスクや管理コスト*1を引き受ける代わりに労働力を仕入れる行為であり、他方で労働者側にとっては、既存の生活環境や人間関係の大部分を入れ替え、新たな適応コストや、既存の人間関係を切り捨てる心理的負担、および労働契約と実際の労働条件が相違するなどのリスクを引き受ける*2行為に他ならない。

使用者側、労働者側がそれぞれ、係るスイッチング・コストを引き受けてでも新たな関係を切り結ぼうとしたのであるから、その合意のアツさたるや、如何ばかりであろうか。両者とも、自らが提供しているもの以上の見返りを将来に亘って得られるであろうとの見込みのもとに、係るコストを全部支払った上で、新たな雇傭契約の成立にこぎ着けたのである。

労働問題は、このような期待が損なわれた結果として発生するものと定義できる。労働者の側から退職を申し出る場合は、一部では脅迫的な引き留めも見られるが、会社に来ない人間を無理矢理連行してくるといったことがあまり現実的ではない為か、法的なトラブルとして出現することはあまりない。そのため、ここでは以後、「労働問題」の名の下に、使用者側の解雇や処分、減給・減俸に対して労働者が抵抗する形をとる法的トラブルを、狭義の「労働問題」として取り扱うことになるだろう。

非問題の「問題」化

労働問題全般に当てはまる傾向として、そもそも問題でなかったものが、労働問題の勃発とともに「問題」化することが挙げられる。これは離婚係争の様子によく似ていて、本来であれば酒を飲んで一晩寝れば忘れたような喧嘩や、ソンタクの世界で許されていたような軽微なルール違反やウソが、ただちに民法上の問題へと姿を変える*3

そこで発生する個々の論点についての係争というのは、実に非生産的でしょうもないものなのであるが、弁護士屋は両者ともにやればやるほど儲かるので、これをはやし立てるか、少なくとも止めようとはしない。したがって、下手をすると2年以上にも亘ってこうしたトラブルが続くのであるが、続けば続くほど、特に解雇であればバックペイというような係争の目的額(勝ったら入手できる、または払わずにすむ金額)が増え続けるので、引くに引けなくなるのである。一方で、*4弁護士屋には、ほぼノーリスクで着手金、手当はじめ報酬が手に入る。

したがって、読者諸兄が使用者であろうと労働者であろうと、ある日突然何かが「問題化」することを前提に慎重に行動しなければならないことは論を俟たないが、多くの事例を観察すると、「非問題の問題化」の連続であるところの労働問題の勃発には、職種によって傾向が大別されることがわかる。

ブルーカラー現業労働者の労働問題

いわゆるブルーカラーの労働問題は、主に、労働条件について労働者側が異議を申し立て、これに対していわば条件反射的に、会社が当該労働者の排除を試みるケースが多い。

ブルーカラー労働者の労働法に関する知識水準は、一般に極めて低い。このことは、ブルーカラー労働自体の性質として、言語ではなく労力を毎日取り扱っているところ、労働基準法はじめ労働問題を取り扱うほぼすべてのメディアは、言語によってその情報をやり取りしていることが、抽象的ではあるが妥当な理由として挙げられるだろう。

ブルーカラー労働者の使用者は、暗黙的にであっても、その事をよく知っている。だからこそ、雇傭する労働者それぞれに、彼らが知らないような権利があって、それを行使されるということをとにかく恐れている。

いわゆる残業代の時効が2年ということもあってか、使用者側にとって、当該労働者の排除は有力な選択肢となりやすい。これから労働条件の改善に取り掛かるのであれば、なるべく早く適当な解決金を、まだ権利にさほど自覚的ではない労働者に支払って債権債務放棄の書面にサインさせればいいのであるし、権利に関する知識が会社全体に波及した場合の損失よりは、当該労働者が徹底的に抵抗した場合に見込まれる費用のほうが小さい。労働組合の組織率は、毎年過去最低を記録しているのである。

また、特に近時はそもそもの賃金が低水準であるから、解雇しさえすれば生活に困窮した当該労働者は、すぐに他の職業に転職して復職の要求をあきらめたり、雀の涙ほどのカネで泣き寝入りするのではないか、ということも期待できるのである。

ホワイトカラー・言語労働者の労働問題

一方で、いわゆるホワイトカラーの労働問題は、実にしょうもない人間関係の「こじれ」が原因で、泥沼の労働問題に突入する場合が多い。

表題でホワイトカラー労働者を「言語労働者」と表現したが、これには理由がある。ホワイトカラー労働者が日々交換する情報(サービス)というのは、常に言語によって表現されるからだ。同じ2トントラックであれば、鹿児島から北九州まで運ぶのに社長に好かれていたり、コミュニケーション能力が高かったりする必要はないのであるが、言語の伝達は常に「語り手」「聞き手」の人的資質に左右される。その時々の気分や状況もあれば、それをソンタクする能力にも差がある。

さらに見逃せないのが、人間はつねに、確証バイアスによって情報を解釈するということだ。確証バイアスという術語の詳しい定義についてはヒマな時に各自ググれば良いのであるが、要するに、「やつは敵だ」「やつは悪者だ」と思いながらやつの話を聞けばそういう風に聞こえるし、その逆もしかりであるということである。

そうすると、常に言語を交換するホワイトカラー労働者の仲間のうちで、特定のバイアスを生じさせるような人間関係のこじれが生じた場合、どうしても、次から次へとトラブルが連続することになる。こじれさえなければトラブルでさえなかったものが、当事者にとっては、トラブルに思えて仕方がないのである。

職場の「インフルエンサー

むろん、労働問題というのは法的トラブルであるから、雇傭契約について決裁権のある人物のところにまで、何かをトラブルであると捉えようとする気持ち、つまり悪意の推定が伝播しなければ労働問題の勃発には至らない。

つまり、法人としての使用者がどのホワイトカラー労働者を相手としてトラブルを勃発させるかは、会社のどこかで、誰かと誰かとの間で発生した悪意の推定が、どちらにとって有利な形で、人事権者の胸中にまで伝播するかに係っているのである。

もちろん、ここで「誰か」の片方に社長が含まれていれば話は分かりやすいのであるが、組織が大きくなるにつれて、社長とじかに話す時間は少なくなっていくものである。ここで、職場の「インフルエンサー」が登場するのである。

インフルエンサーというのは、元来マーケティング用語であって、芸能人でもないのに多くの人にものを買わせることができるような、インターネット上の小さな人気者のことを指す。これは小学校のクラスに一人はいた人気者のような性格を持っているのだが、似たような位置づけの人物が、やはり小学校のクラスのようなサイズの部署や会社において、ひとりかふたりはいるように思われる。

このうち抑圧的な影響力を持つようなものは、昔から「お局様」として呼称され、忌み嫌われてきた。それなのに、肯定的なインフルエンサーについては、サラリーマン用語として定義されたことがない。

お局様にとって、上司である人事権者を「抑圧」することは必ずしも容易ではない。しかし、上司に対して友好的な影響力を行使し、同じ見解に立たせるのであれば、難しくはない。既に述べたような言語労働者の性質や、悪意の推定を人事権者に伝達させることの構造的な必要性からいえば、ホワイトカラーの職場において日常的な言語情報の交換を、労働問題に転換させる鍵は、現場に近いところにあって言語情報を頻繁に他の労働者と交換していて、それゆえに人間関係のこじれに遭遇する可能性があって、そこで得た悪意の推定を上司に伝播させる能力を持つ「インフルエンサー」に握られているように思われる。

インフルエンサーが直面する「法治主義

しかし、ブルーカラー労働者で怠惰なものを職場から排除することほどには、ホワイトカラー労働者の排除は簡単ではない。すなわち、トラックを運転しなければタコメーターが回らないのであるから、また、必要に応じて監視カメラのひとつでも取り付ければ比較的明らかに勤怠の実情はあきらかになり、ここに有効な争いの余地は生じにくいのであるが、ホワイトカラー労働者が普段交換している言語というものは、それが伝達された状況に応じて意味を変えるものであるし、その当時と現在における回想でも味わいが異なるし、受け手の個人的なバックグラウンドによっても意味が異なるし、要するに十人十色の解釈があり得るのである。

そのため、言語労働者が、言語を用いてする「犯罪」は、きわめて抑制的に定義されざるを得ない。その結果が、現在さかんに云われている、官僚によるセクハラ発言をめぐる論争であろう。

しかし、言語が与える印象は、一度発信者に悪意を推定すれば無限に不愉快なものであるし、その推定を裏付けるような文脈でしか解釈できなくなるものであるから、前段のインフルエンサーや、その伝播に降った上司や同僚に取ってみれば、視界に入るだけで不愉快の部類に含まれる類いのものなのである。

そこで時に、使用者は言語による犯罪を謳って、労働者の排除を試みざるを得ない。この種の争いはどうしても複雑なものになるから、弁護士屋にとってみれば、恰好の書き入れ時となる。この場合、使用者は主観的な快適性を、莫大な費用と、バックペイのリスクを引き受けてまで購入しているのであるが、人間は常に、将来の負債よりも現在の資産を好むものであるし、経営者は株主から預かった資金を、無為に、ホテルとか銀座とかの飲食店で浪費してしまうものである。この場における弁護士費用も、事実上似たような性質を有している。

ところが、ここで法治主義の壁が立ちはだかる。法治主義の定義についてはやはりググってもらうか、社会科の教科書を開いてもらうとして、要するにここでいう壁とは、法律は、インフルエンサーやその伝播下にある者の主観を代弁してくれるものではない、ということだ。立法者は賢いもので、前述のように、処罰に値する言語行為について、きわめて抑制的に定義している。

それゆえ、職場のなかでとりあえず誰かを孤立させたり、上司を味方に付けたりするのと同じぐらいの容易さでは、法的な意味で言語労働者を排除することはできない。

ワガママが通らないことへの戸惑い

それでもインフルエンサーが争いや排除に固執するのは、インフルエンサーという性格が自然に有する性質として、他人を支配下に置き、ソンタクさせ、争うまでもなく意図するとおりに行動させることに、恐らくは幼少の時期より慣熟していたからではないかと思われる。

だからこそ、法的な権利はじめ、誰に対しても平等に与えられるものは、インフルエンサーにとって障害であるのだ。なぜならばインフルエンサーは、人が言語によってのみ思考することを利して、なるべく自己にとって有利な印象を植え付け、「クラス」の中で普及させることによって、実際に供出した能力や労力、コミットメントを上回る対価を得てきたのだから。

最近の動向を念頭に、筆者がかつて所属してきた社会で起こった人間関係上のトラブルを思い返してきたところ、そこには常に「インフルエンサー」の姿が見え隠れした*5。議論の内容がどんなものであろうとも、その人に異議を申し立てた途端、自分の方だけが社会から離脱し、宙に浮いたかのような錯覚を覚えさせてしまうような人が、常に最後の対立相手であった。

逆に云えば、それ以外の構成員とは、仮にトラブルになっても、その場だけの問題で済んだし、済まされた。当事者の間では悪意の推定が働き、色々な言葉が問題化したのであるが、局地的、一時的な対立として処分されたのである。

しかしインフルエンサーを相手にした途端、その風景は一変する。多くの構成員がほぼ一斉に、昨日とは異なる意味で筆者の言葉を捉えるようになり、黙っていても抗弁を続けても、トラブルが自然消滅することは絶対にない。

社会人未満と社会人以降で、このようなトラブルの性質に相違があるとすれば、そこに少なからぬ額の金銭と、法的な保護や責任の力が働くかどうかである。

小括

かつて、多くの人は筆者より社会的であるから遭遇するトラブルが少なく、筆者はそうでないので、様々なトラブルを見てきたのだろうと信じていた。しかし事実は、多くの人は「相手を見て喧嘩をしている」だけなのだろうと、上の見解を踏まえて思い直す次第である。

筆者は個人的な性格として、人をなるべく平等に扱うようにしている。ある人がやれば非難される行為が、別の人がやるのであれば非難されないといったことは、原則として絶対に認めない。無論警官ではないから能動的にそれを取り締まりに行くわけではないが、筆者の近くでそういう事が起これば、いつもそのように処理してきた。その結果、多くのインフルエンサーの尾を踏むことになったに違いない。

そんな筆者にとって、法の保護に服することができるということは、大いなる喜びである。社会科で習ってから15年以上を経て、ようやく「法」の有り難みを実感する日が来たのである。

なぜって、筆者は臆病者であるから、明文のルールにだけは違反せず、なるべくなら公共の社会秩序をも侵害しないように、ビクビクして生きてきたのである。特に、大学を放り出されてからのここ2年間は*6

 

「民主主義、万歳」

*1:補助金が出る場合も一部あるが

*2:現在の勤務先では、少なくともそれは明らかになっているのである。どんなブラック企業であろうとも

*3:もちろん、その背後にはそれを推奨する弁護士屋の影がある

*4:特に使用者側の

*5:無論、所属したあらゆる社会でトラブルを起こしてきたわけでは到底ない

*6:だから、インバウンドの人々や、そうでなくても騒音を発するヤンキーとか暴走族は大嫌いである

働く喜びについての中間報告

2年ぐらい手掛けていた経営者業(自営業)を、名実ともに手放すことになった。プライベートの場ではないからあまり仔細には書けないのだが、ぶっちゃけ、めっちゃ嬉しい。そもそも、(当時)20歳で「社長」なんて違和感満載で、気持ち悪すぎる。誰かにそう呼ばれる度に、現在に至るまで多少の吐き気を催していたぐらいだ。

従って、会社名を冠したこのブログのタイトル「tOriMado」も、元に戻す必要がありそうだ*1ドメインを変えなくてよかった。

その昔、会社の名義で三鷹市内のアパートを借りたことがある。駅からも遠く、実にしょうもない物件であったのだが、借りるのは大変だった。一応「お客様」であり、事務所可の表示がある物件であるにも拘わらず、吉祥寺駅からほど近い不動産屋はまずこう言い放った。振り込め詐欺の事務所ですか?」と。

振り込め詐欺をやるだけのコミュ力と積極性があれば、人生色々と変わっていたと思うのだが。俺の顔見てそんなに詐欺師っぽく見えるかね。と不満に思いつつ*2

しかし、それでも借りる必要があったのは、物理的な事務所がなければ法人名義の銀行口座を開けないからであった。しかし、その為とはいえ毎月7万円ぐらい(光熱費込み)の固定費負担は痛かった。世の中、持たざるものにはとことん厳しいのだ。元手が自己資本15万円と他人資本5万円、アイフルからの借入金30万円だったのだから、その厳しさは明らかだと思う。

しかしながら、当時の住所は学生時代から(寮監にバレないように)住み続けていた学生寮であったから、登記など出来ないし、登記したところで金融機関の現地確認など受けようがない。どうしようもなかったのだ。

 

ところで、今日の話題は「働く喜び」である。(会社員は辞めていないが)経営者を辞めて相当ヒマなので、『国富論』を読み返しているのだ。いつ読んでも発見の尽きない稀有な書であるが、第1部で針工場の喩えが出てくる。普通の人が針を作ろうとしても1日に2,3本がせいぜいで、質もよくないが、工場を使えば5,6人の工員で質のよい針を何千本と作れる。それは、それぞれの工員が一つの単純作業に特化することで、作業を切り替える時間が節約でき、しかもその作業について能率的な方法を発見するからである、と。

ようするに「分業の利益」のお話しなのだが、ここでは「単純作業」に注目したい。よく考えたら、どんなに意識の高い仕事だって、じつは単純作業に過ぎないのではないかと思い立った。

GoogleAppsScriptでコードを叩きまくるのも、キーボードと指が接触しているという意味においては単純作業だ。優秀な営業マンも、究極的には足と口を動かしているに過ぎない。精密なMacbookを作る工場だって(まさに上記の方法で)多数の労働者が単純作業を繰り返しているわけだし、その設計図をつくる作業とて、鉛筆を上下左右に移動させたり、使いにくいCADのソフトをカチカチする単純作業に他ならないだろう。

それでは、フォックスコンの労働者とスティーブジョブズは代替可能なのだろうか?*3

答はノーである。なぜなら、フォックスコンの労働者には知識がないからだ。最悪の場合、CADソフトを起動させることすら出来ないだろう。GASを叩くのも同じ事だ。営業マンだって、そもそも言語を知っている*4から営業が出来る。つまり稀少性の高い労働とは、需要の高い知識を有する人物が行う単純作業の連続をいうのであって、誰にでも行いうる単純作業に、一定の知識が付加価値として附着したものに過ぎないのだ。

経営していた会社でやっていた事業も、要するにそういう事だった。GASやHTMLの知識は初学者程度にしかなかったが、資金決済法が改正されるよりよっぽど前に情報を集め始めたこともあって、仮想通貨についての一定の知識が、筆者の単純作業に上乗せされた。その結果、人がそうするより先に、ちょっとした役務製品を作りあげた。

学生時代に世間さまが筆者に与えてくれた仕事と比べれば、全然自由があったし、働くことそれ自体によって、知識が蓄積される機会があった。時間が摩耗する一方で、知識(経験)が蓄積された。結果的には、創業以前にやっていたようなアルバイトをやって2年を過ごした場合よりも、筆者が実際にそうしたような方法で2年を過ごした場合のほうが、筆者にとって有益だったと思われる。

筆者にとって、休日は事実上無かった。会社員としての立場を得るまでは誰の指図も受ける必要がなかったから、資金が尽きない範囲で好きなことが出来た。この場合、仕事が溜まっていなければ休むことも出来たし、会社に行かなかった日もあったはずだ。

しかし今日においても、休日である事それ自体が楽しいと思ったことはない。本や新聞は高い集中力を要するので3時間以上に亘って読み続けることができないし、ゲームや動画はバカらしくて見ていられない。旅行に行くとお金が掛かる。

飲食店に出入りするとお金だけでなく心も消耗するので、純粋な喜びは自宅や落ち着ける喫茶店で行う何かしらの飲食、飲酒しかないと思った。しかし、飲食は大体、肥満をもたらす。肥満を解決して健康を買い戻すには、平均して1kgあたり5万円程度の費用が掛かることが(実際に試した結果)分かっている。要するに、休日の飲食は将来の苦痛と当日の快楽を高利に交換しているだけであって、純粋な喜びの総量を増やしてはいないのだ。

多くのアルバイトや単純労働と異なって、経営者や(外回りの)営業マンは時間的な自由がある。カッコよく言えば「裁量」である。以前は、これこそが楽しい労働とそうでない労働の間に横たわる違いだと信じていたが、それは誤りであったと今は思う。時間的な自由は、何もしない時間と化してしまえば(坐禅のような)苦痛をもたらすので、結局のところ何かをするしかない。何かをする為には、何かしらの役務や商品を購入する費用の発生や、健康を害したことによって、将来それを買い戻す必要があるという負債の発生を許容しなければならない。

それを考慮すれば、スーパーあずさで松本新宿間を毎月50往復しても構わないぐらいのお金持ちにならない間は、自由な時間自体が快楽を提供してくれることはないと思われる。スーパーあずさで松本新宿間を毎月50往復するような労働を可能にする知識がどのような知識であるかは*5あまり興味が無いのでここでは扱わない。

 

労働が喜びである原因があるとすれば、第一に、職場の雰囲気が十分良好で、話し相手がいるということだろう。それによって顧客から見たサービスの質が低下したり、単純作業の能率が低下するのでなければ、これは間違いなく望ましいことだと思われる。アルバイトの経験で言えば、ブックオフがこれに近かったと記憶している。

日本のサービス業では、従業員が顧客以外と口を聞かないことがサービスの一環だと考えられているので、この点では苦痛が大きい。ただでさえ近くに居る人と話したいところ、そういう訳にもいかないから人々はTwitterにハマっていると思われるのに、非常に抑制的であると思う。ちなみに中国に行けば、客も店員もいつもうるさく話しているので、業種を問わず、この種の苦痛はあまりなさそうだ*6

 

第二に、筆者にとっては、自らの価値観と大きく矛盾しないことが非常に重要であると感じている。政治家にでもならない限りは、価値観そのものを商品にして生きていくことは出来ないだろう。

しかし、商品を売る場合はその目的となる商品、商品を作る場合もその目的の商品について、それを行う方法や、その商品が社会に投入された結果について、自らの価値観と矛盾するかどうかを考えることは可能である。

家電量販店の販売員をやっていた時代は、けっこう苦痛であった。商品が日本メーカーのぼったくりに過ぎないと分かっていても、売らなければならなかったからだ。ライバル社の商品のよいところをよいと言えないのも苦痛であった。

販売員としての業界での評価は悪くなかったので、その気になればこの仕事に留まって、今日もどこかでプリンターを売っていることも出来ただろう。しかし、働けば働くほどに商品自体を作り、あるいは独占的なメーカーや販売店が故意に隠そうとしているよりよい方法や無名な商品を引っ張り出して売る側に回りたいとの思いを強くした。結果的に、この思いは現実となった。

価値観は、思うに、起きている間中スマホゲームに熱中している人々の気持ちが筆者には一切理解できない(が、スマホゲーム会社は大儲けしている)ことから明らかなように、幼少期からの教育によって作られるものであって、変更することはほとんど出来ないので、それに適した仕事を求める他ないように思われる。

仕事と価値観が一致すれば、仕事自体は誰にとっても等価な(附加される知識の量とその種類の違いはあれ)単純作業にすぎなくても、そこに特別な意義を見出すことができる。人には大抵好き嫌いがあり、それを自分や他人、ゆくゆくは全世界に押しつけたいと願っているが、その目標に一歩ずつ前進しているように思えるか、少なくとも後退していると思うことによる苦痛を逃れることはできるからだ。

その場で同じような意義を見出すことができる友人を作る機会があれば、恐らくは長期に亘って労働の幸福を押し上げることができるだろう*7

 

働く喜びについて。現段階で筆者が分かっていることをまとめてみよう。全ての労働は単純作業の連続や組み合わせであるが、高度かつ需要の高い知識によって制御された単純作業であれば、そうでない単純作業よりも高い対価を世間さまに請求することができる。

単純作業の種類によっては、休暇が多かったり自由に取得できたりするが、休暇を消費する為にもコストを要するので、資金が有限である限りは、そのような種類の単純作業を射止めても、さほどの幸福を感じることはできない*8

人は常に誰かと話したいと思っているので*9、それが可能であるような職場は、従事する単純作業が同じであれば、そうでない職場よりも一般に幸福度が高いはずだ*10。また、自身の価値観に沿った商品を扱う単純作業であれば、単純作業に特別な意義を見出すことができるので、そうでない単純作業よりも幸福度が高いはずだ。

昔もそんな記事を書いた覚えがあるが一応補足すると、幸福度を向上させること自体が人生の目的であるという話はしていない。だいたい、幸福度は蓄積性に劣るので、幸福の蓄積よりは財産の蓄積のほうが、(何かの一貫した目的に沿って時間を消費したいという希望がある人にとっては)より妥当な目的設定だとおもう。

しかし、幸福度が高ければ、幸福を購入する為の費用をその分だけ免除されるので、幸福でない場合よりも好ましい。つまり結局は財産を殖やすという(対置されがちな)目的も達成される*11。スミスの言葉を借りれば、今年の労働によって、来年の労働を買うことができる。つまり「生産的」ということだ。

 

*12

*1:戻した

*2:もっとも、当時の体重は88kgであったので、詐欺師というか自己管理能力の無いバカ自営に見えたことだろう

*3:アダムスミスは、「誰でも荷担ぎ労働者に似たところがあるとは認めたがらないが、実際のところ、人の能力には生まれながらにしてそれほど大きな違いはない」と断言している

*4:ビジネス特有の言葉遣いを含めて

*5:弁護士資格かもしれないし、はたまた弁理士かもしれないが、そんなことよりあずさ回数券くれへん?

*6:というかホテルマンぐらい英語を話してくれ!

*7:そんな友人が学校で作れればいいんだけどね

*8:ただし、空間や時間が制約されることによるストレスを回避する役には立つ

*9:そうでなきゃはてなTwitterも倒産してるよ

*10:特に、この家族崩壊のご時分では

*11:達成から遠ざかる機会を回避し得る

*12:相変わらず意味不明な文章だが、これはもうそういうものなんだと思ってください

転売的アプローチと発明的アプローチ

ベンチャーやらスタートアップやら色々うるさい時代における、富の源泉について考えている。

この懐かしい記事では、いわゆる付加価値はどのように定義可能かということについてちょっとだけ考え始めている。面積を最終商品の価値とした時の、レーダーチャートの軸を発見する作業だ。

しかし今日は、どのレーダーチャートの軸であれ、伸ばしていく作業(付加価値の創造)は抽象的な次元において皆同じなのか、または、例外となり得る業種業態が存在するのか……ということを書きながら考えたい。

仕入と転売

多くの産業は、仕入と転売によって成立している。メルカリやチケットキャンプで見られる転売屋と本質的に何も変わらないことを皆がやっている。

転売屋は資本がないので、自らの時間と労力を資本としてブックオフを駆け回り、Amazonやメルカリに出品することで利益を得る。しかしスーパーは資本があるので、朝、卸売市場で仕入れた野菜を消費者の自宅から近い位置まで運んで陳列し、利益を得る。場合によっては労働力を仕入れ、厨房で魚をスライスし、刺身として高値で転売する。

飲食店は、そこで販売されている適量の野菜や魚介を仕入れ、仕事帰りの時間帯で、なおかつビールを飲んだ状態の顧客にますます高値で販売する。むろん多少の熟練は必要だが、転売屋がよい商材が並ぶブックオフを嗅ぎつけ、Amazonで商品を出品するにあたって必要な熟練と、スーパーや居酒屋のアルバイトに期待される熟練が困難さにおいてそれほど異なるものとは信じがたい。しかし、必要とされる資本は大幅に異なる。スーパーの営業に必要な地代は少なくとも月あたり1,000千円を要するし、人件費も1,500千円は要するだろう。居酒屋であれば設備と内装だけで10,000千円の初期投資を要する場合も少なくない。

このような資金を銀行から有利に調達できる事業主は多くはないし、その勇気がある事業主はさらに少ないだろう。ところが、転売屋であれば自転車と綱絡*1接続さえあれば十分である。リスクを取らずに開業する方法としては、悪くない。

一般に転売屋に対して向けられる嫌悪感は、あまり理由のないものだと思われる。「ヤツらがブックオフ仕入れなければ俺が安く買えたのに」という主張は、スーパーが卸売市場で買い占めなければもっと安く刺身を食えたと主張するのとあまり変わらない。なるほど事実ではあるが、すると君は、毎朝卸売市場に足を運んでむこう一週間の食材を買い込み、欲しい本があれば安く見つかるまで地域の古書店をくまなく巡る生活を望むのだろうか。多くの人がそれを望んでいないからこそ、上で述べたような転売型のビジネスモデルが成立しているのである。

知的労働における転売

いわゆるホワイトカラーの職業や業種でも、一般的に企業は転売によって生計を立てている。有名な三菱地所は、岩崎弥太郎が大正時代、現在の価格に換算して50億円ほどで仕入れた丸の内界隈の土地に、絶えず「ビルヂング」を建てては賃貸することで収益を得ている。この場合、仕入集合は

input{ land(at marunouchi), building } であり、売上集合は output{ rooms/month } である。本質的には、レストランが食材を仕入れて調味料を加えて調理し、客に提供するのと何も変わらない。近年の人手不足で盛況の人材派遣業も、きわめて単純な転売モデルで機能している。input{ labor , management } に対して output{ fee/hrs } を出力する。MVNOなど他にも多数の例を挙げられるが、もはや十分であろう。

労働者と転売

賢明な読者は既にお気付きだろうが、人生そのものも実は転売である。上の表現を利用すれば、労働者の人生は

input{ experience, time, knowledge } : output{ wage/hrs }

の関数として表現できる。ただし国や地域、時代によっては、inputeducation backgroundclassが加わることがあり、それぞれの比重も個々のケースによって異なるだろう。

ここ数日話題をさらっている*2奨学金破産も、上の転売事業の失敗例に他ならない。ある労働者がある大学に行ったとき、得べかりしinputに対応するinput後の自身の市場価値outputと、その回収時期*3のタイミングを見誤って不相応な額の借金をしたからである。むろん大学の視点でみれば、巧みな広報戦略で労働者をうまく釣って、破産させてまでサービスを売りつけたことになる*4

非転売的な事業

それでは、経済活動のほとんど全ては転売であり、それぞれの経済主体にとって受容可能なリスクと調達可能な資本の規模によってその種類が異なるに過ぎないのだろうか。

ここで、いわゆる「発明」「イノベーション」といわれるものについて考えてみたい。世界には、非連続的*5な発見がある。最近であればブロックチェーン技術や、IPS細胞を挙げることができる。魔法使いと呼ばれる落合洋一教授を取り上げた放送番組を観た人も多いだろう。ベンチャー企業による革新的なサービスの提供も、同様に仕入と転売の関係にあるのだろうか。

例として、Googleの先進的な検索アルゴリズムについて検討してみよう。Googleは多数のエンジニアを雇傭し、開放的な「キャンパス」*6で開発に従事させる。この点までは、一般的なSI(システムインテグレーション:総合的システム開発)業者も同様である。なるべく優秀なエンジニアを雇傭し、顧客が要望する商品の開発に従事させる。使用するプログラミング言語も同一だろう。

筆者の想像が及ぶ限り、転売型アプローチと発明型アプローチの間に横たわる唯一の差異は、顧客の要請が先験的に存在するか否か、存在する場合は服従するか否かにあるようだ。SI業者は顧客に要件定義書を提出させ、商品を納品すれば、要件定義書の条件を満たしたことを理由に支払いを要求する。ところが、Googleの新しい検索エンジンについて要件定義ができる顧客など存在しない。顧客(ユーザー)が持っているのは、より適切な情報に素早くたどり着けるようにして欲しい、その方法は問わないという漠然とした願望だけだ。

Googleは、顧客の要求を忖度する。顧客はより便利な検索エンジンを求めているが、その対価として(広告を見るにせよ、現金を払うにせよ)どこまで支払可能だと考えているのか。検索の速度と精度は、どちらがどの程度優先されるべきだと考えているのか。専門的な情報と即効的な情報、画像と文字、PDFとdocのどちらを求めているのか?

この特徴は、多くの技術系ベンチャー企業について妥当するように思われる。フリルは高いUX(顧客体験)によってヤフオクがすでに占有していた市場に入り込み、よりリテラシーの低い層にも個人売買を普及させることに成功した。この新しい個人売買アプリについて、フリルの開発陣に要件定義書を送った顧客がいたとは思えない。フリルは、それを忖度したのである。

他の多くの産業が、顧客から注文書を受け取るより先には商品を作ろうとしないのに対して、上のベンチャー企業による発明型アプローチは対照的な関係に見える。スーパーマーケットは、見たこともない味付けの惣菜や、通常使われない具材を含んだ弁当を売りつけようとはしない。一方で*7一部のアグレッシブな事業主は、顧客が欲しいと思ったことがない商品を自ら作り出し、提供する。むろん、スマートウォッチのPebble社のように、一見大きな支持を集めながらも、商業的には失敗に終わった例も少なくない。しかし、顧客のニーズを忖度してプロダクトにする発明型アプローチは、Appleの成功の要因としても頻繁に挙げられていることである。また、IT系ベンチャーでなくても、このような発明型アプローチを取る事業主はみなベンチャーであると定義することもできるだろう。

発明は転売なのか

前項で説明したようなイノベーションや発明は、往々にして少人数のカリスマによって行われる。これらのカリスマにとって、発明は情報を仕入れて転売する活動なのだろうか。

イーロン・マスクやスティーブ・ジョブズ革新的アイデアaを思いつくまでの経験集合input{ experience }に含まれる要素が少しでも現実のそれと異なれば、革新的アイデアaの内容や発見される時期は多少ズレていたか、最悪の場合は彼らが死去するまでの間に発見されなかった可能性はある。しかし、転売屋がAmazonでの市価を見越してブックオフのレジに本を持ち込むのと同じように、彼らは革新的アイデアaの発見を予定して経験集合を組み立てていったのだろうか。

著名なジョブズ氏のスピーチによれば、この仮説は棄却されるべきだろう。

先を見通して点をつなぐことはできない。振り返ってつなぐことしかできない。だから将来何らかの形で点がつながると信じることだ。何かを信じ続けることだ。直感、運命、人生、カルマ、その他何でも。この手法が私を裏切ったことは一度もなく、そして私の人生に大きな違いをもたらした。

つまり、転売型アプローチが顧客の明示的な要求から帰納して生産要素を仕入れ、加工することで収益を得るのに対して、革新的な発明は顧客の明示されていない要求を忖度し、それに合致する商品が過去の経験集合から偶然に発見されることによって得られるものと考えられる

FacebookPayPalといった個々のサービスがどのように発見されたかについて筆者は全然詳しくないが、創業者たちの脳裏には、「このようなサービスが提供されれば、多くの顧客が列を成して利用するはずだ」と思えるに十分なサービスの青写真が存在し、それ故に莫大な資本を調達し、開発や世界展開に投じたものではないだろうか。ザッカーバーグがプログラミングに多少長けていたように、彼らはどのようにすれば青写真が現実になるのかと言うことを、少なくともある程度までは知っていた

著名なZapposのように、靴の通販サービスという青写真はあったものの、いきなり巨額の投資をするだけの自信はないので、最初は非常に田舎くさい方法でテストを行ったような例もある。日本の大手企業も、一部の地域に限って新しい味の商品を投入することがある。これは、巨額の設備投資を行う自信がないからに他ならない。Amazonも、自信がないのでAmazon GoやEchoのテストに興じている。広告業界で著名なホプキンスの著書でも、テストマーケティングの重要性は強調されている。

一方で、自信満々のセブンイレブンはドミネーション戦略を敢行することによって、他のコンビニチェーンには期待できないような効率化と顧客粘着性を実現している。

どうすればジョブズになれるだろうか?

それでは、我々はジョブズになる為に何ができるだろうか。

第一に、顧客の非明示的な要求を忖度するだけの想像力が必要だろう。新聞やテレビからは読み取ることができな部分があると仮定するなら、人脈が広い方が良いかもしれない。自分も顧客のひとりになるような商品を作りたいなら、みずから様々な趣味や仕事に従事する必要があるかも知れない

outputにあたる商品の作り方についても、ある程度の知識が必要だろう。具体的には、現在の技術水準において何が可能で、何が不可能かについて知っておく必要があるはずだ。静電式タッチパネルの存在に気付かずに、iPhoneを発明することは難しい。

要するに、需要側である顧客の不満や理想に絶えず想像を巡らし、同時に生産側である産業、技術の動向についても情報を収集して、何がどの程度のコストで可能であるかを知っておく必要があるだろう。両者の具体的な方法は多数考えられるが、それはあまりにも多岐に渡るのでここでは扱わない。ただし時間は有限であるから、そこ過程においても、効率性の実現は必要となるだろう。

 転売的アプローチの未来と発明的アプローチの必要性

本稿の趣旨は、転売的アプローチには未来がない、というありふれた攻撃を行うことには所在しない。電力や鉄道、通信に代表されるインフラ産業においては、初期投資のコストが個々の顧客の需要量に対して絶大であるから、集積された資本による転売的アプローチが今後も必要になるだろう。

いっぽうで、転売的アプローチによって運営される事業には必ず、より大きな資本による参入、独占といったリスクが伴う。もともと発明的アプローチによって切り拓かれた市場であっても、ひとたびそのビジネスモデルが機能するということが明らかになった以上、大手資本は参入の機会を模索する。その後の競争が、既に機能することが証明された要件定義済みの商品を開発し、莫大な広告費を投入した販促活動が繰り返される転売的なものになることは論を俟たない。

この場合、最初に市場を開拓した優秀なチームに残されているのは、自分たちこそがファーストペンギンであると自負する誇り高き創業陣と開発者、幾許のネームバリューと顧客を始めとする先行者利益だけである。それは十分である場合と十分でない場合があるので、フリルの場合は十分優れた商品を最初に作りながらも、資本の豊富なメルカリに敗北してしまった。

このような失敗を回避する方法の探究こそが、実際のところ筆者の関心なのである。ひとつは、アプリ開発のような綱絡関係の事業ではなく、飲食店や雑貨店といった地理的制約を伴う業種で発明的アプローチを導入することだろう。次に、綱絡関係であっても、大手資本にとって参入の価値がない小さな市場に集中することである。

ところが、多くの創業者にとって上のような選択は魅力的とはいえない。そこで考えられるのが、発明的アプローチを連続的に行って商品を非連続的に改善し続け、ちょうどインテルAMDの追いつくよりも先にますます高密度な半導体を開発するように、大手資本を置き去りにし続けることである。

それを可能にするためには、個人にとって発明的アプローチがどのようにして可能となり得るのかをより深く探究し、繰り返し再現する必要がある。そこで、上のような論考に及んだ。

*1:インターネット

*2:あからさまに朝日新聞社が「仕掛けている」ように見えるが

*3:10年後までポジティブ・キャッシュフローを維持できれば、破産せずに学費を回収できた可能性もあるため

*4:低賃金な進路が保障されている大学の広告を電車で目にするたびに、そう思う。広報担当者がばかでなければ、効果があるから毎年掲出しているのだろう

*5:昨日までの経験からは予見困難な

*6:立入自由な本社社屋

*7:西荻窪に存在する素晴らしい店を含む